(復帰50年へ 証言 普天間返還:2)よみがえった米海兵隊案 元防衛次官・秋山昌広さん=訂正・おわびあり

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 米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の返還合意の前年の1995年、米兵による少女暴行事件が起きました。当時、防衛庁防衛局長として、日米外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)のため、米国にいましたが、「これはえらいことになった」と思いました。

 米国は事件を受けて、「協定の改定は難しいが、思い切った運用の改善をする。それで何とか収められないか」との意向でした。しかし、大田昌秀知事は在沖縄米軍基地の整理・縮小という姿勢をはっきり打ち出してきました。防衛庁としても、「これは基地の問題だ」という認識でした。

 「5年ないし7年以内」の返還で日米が合意できた背景には、95~96年にかけて起きた台湾海峡危機がありました。米国の意識が中国、台湾へと向き、沖縄の米軍基地の存在意義も変わったのではないでしょうか。沖縄を今後も安定的に使用するためには、普天間を返還しなければいけないという発想があったのだと思います。橋本龍太郎首相は普天間の代替施設について、県に了解を取るうえで「情勢の変化があれば撤去できる」という点を非常に強く意識していました。

 日米の事務方の協議では、米側から名護市辺野古沖に巨大な埋め立て空港を造るという案を示されたことがありました。60年代に海兵隊が作成して眠っていた案でした。辺野古の湾をほとんど埋め立てるようなもので、無神経な計画でした。『こんなことはできない』と突き返しました。結局は今も、海兵隊が考えていたような案になってしまいました。

 普天間返還は県にとって大歓迎ですが、代替施設を沖縄に確保したいという米側の意向には大田知事も結局、最後まで「イエス」と言いませんでした。根っこには、新たな米軍基地が沖縄にできることへの強い抵抗感がありました。

 ここまで政府、県の双方が裁判に繰り返し訴える状況では、解決策を見いだすのは難しい。当時は沖縄の立場を代弁する人が政治家にも何人もいたが、今はいなくなりましたね。=肩書はいずれも当時

 (聞き手=相原亮)

     *

 あきやま・まさひろ 1940年生まれ。大蔵省を経て防衛庁に。防衛局長や事務次官を歴任。現在は「安全保障外交政策研究会」代表。

 <訂正して、おわびします>

 ▼3日付社会・総合面「復帰50年へ 証言 普天間返還<2>」の元防衛次官・秋山昌広さんのインタビュー記事で、「ここまで政府、県の双方が裁判に繰り返し訴える現状では、移設は難しいのではないでしょうか」のうち「……現状では、移設は難しい」とあるのは、「……状況では、解決策を見いだすのは難しい」の誤りでした。コメントの趣旨を取り違えました。

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