(ひととき ことば考:1)終活 老老介護照らす、古写真の瞳

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 ■掲載開始から70年

 滋賀県彦根市の三宅春代さん(91)が2年ほど前、アルバムの整理をしていると、モノクロの手のひらサイズの写真が目に飛び込んできた。

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 撮影は1957年4月の彦根城。当時28歳だった春代さんが、生後5カ月の長男・利彦さんを乳母車に乗せ、花見に行ったときのものだ。その写真の夫、友三郎(ともさぶろう)さん(96)の瞳に引き込まれた。

 友三郎さんとは、見合いをし、一度だけ会って26歳で結婚した。条件はこれといって魅力的ではなかった。ただ、瞳が澄んでいたのを、写真を見て思い出した。「穏やかそうで、この人とならやっていける」。そう確信した。

 友三郎さんには、米寿を過ぎた頃から、もの忘れの症状が出始めた。医者嫌いできちんと診断を受けたわけではないが、おそらく認知症だ。

 当初は人の手を借りることも考えた。しかし、介護保険の認定を受け、デイサービスに3回ほど足を運んでみたが、友三郎さんは利用者の輪の中に入らず、終始けげんな顔。一方で自宅に戻ると何ともうれしそうな表情をみせ、施設の利用は続かなかった。

     *

 今では、合わせて187歳になる「超老老介護」だ。夫婦は互いに体が丈夫で、友三郎さんはトイレには一人で行き、食事も用意すれば一人ではしを使って食べられる。散歩は、杖を使うのは自尊心が許さないとみえて、春代さんが押す自転車の後ろのかごを支えに進む。出先に連れて行くと、春代さんの隣で黙って座っている。

 はたから見ると、仲むつまじく見える2人。しかし時に友三郎さんは暴力的になる。他人や息子夫婦の前では愛想がいいのに、2人の時は、たたいたり、下着を投げたりすることがある。「病気がそうさせている」と頭では理解できても、感情が追いつかない。

 そんな疲れた心に、モノクロ写真は、しみいった。

 友三郎さんは、労働組合の活動をしながら、当時の男性としては珍しく、家事育児にとても積極的な夫だった。夜中の子どものオムツ替えをじゃんけんして決めたり、春代さんが日曜出勤の時にはお弁当を作って、「おい、弁当を忘れるなよ」と持たせてくれたり。

 何でも話し合い、「けんかするほど仲がいい」と言うように、3軒先の神社の鳥居まで声が聞こえると笑われた。還暦のときには春代さんが書きためた新聞投稿やエッセーをワープロで打ち直し、和とじの冊子にしてプレゼントしてくれた。

 そんな日々に、春代さんの心はみるみるタイムスリップした。

 それから、写真を写真立てに入れて、居間の電話の横に飾り、夫の日々の世話に疲れたり腹が立ったりするときに眺め、心を和ませてきた。家の模様替えをしたときに行方不明になってしまったが、最近、同じ花見の時に撮った別のコマが出てきて、また懐かしく見入っている。

     *

 友三郎さんはこの夏、1カ月ほど食がとても細い時期があり「これでお別れか」と思った。それでも芯が丈夫で、「腹が減った」と言いだし復活した。「認知症の夫にいじめられ、はやく一人になりたい」と思う一方、「いなくなったらどんなにさびしいか」とも思う。

 天気の良い日は縁側のソファに腰掛けて、長い時間、2人で過ごす。友三郎さんは、日が陰ると、庭先に干している洗濯物を家の中に取り入れてくれる。「昔取った杵柄(きねづか)だから、病気になっても手が動くのかしら」

 「ありがとう」。春代さんが声をかける友三郎さんの瞳に、昔の輝きを探すのは難しくなった。

 「でもね、いとおしい存在ですよ。この人が私の人生だなあと。これからは周りの手もどんどん借りて、なるべく長くそばにいたいと思います」(北村有樹子)

     ◇

 来年10月に掲載開始から70年を迎えるひととき。日々の投稿は、そのときどきの世相を映し、個人の思いを伝えてきました。つづられた「ことば」に着目し、5回の連載で振り返ります。

 ■傍らに60年前の夫 2018年12月3日掲載(大阪本社版)

 つれあいは94歳。6年ほど前から物忘れが出始め、徐々に進行してきた。

 耳は遠く、歯も抜けるにまかせての医者嫌い。デイサービスなどの福祉も受けない頑固さがあり、友人が好意で招待してくれた「ふれあいの集い」でも「帰ろう、帰ろう」とせきたてる。

 かつての穏やかな性格が変わり、意にならぬと暴力にまで及ぶ。はじめはまともに対応して、腹を立てたりしていた。だんだん「認知症という病気のさせること」と考えるようになり、逆らわず、夫の言いなりになっているうち、私のストレスがたまってきた。

 そのような暮らしの中で、「終活」にとアルバムの整理を始めた。目にとまったのは一枚の写真。60年前、生後5カ月の長男を乳母車に乗せ、彦根城へ花見に行き、撮ったものだ。夫は黒髪がふさふさとして、澄んだ瞳が若々しい。

 「ああ、こんな時もあったんだ」。その写真の表情が、かつての温厚で誠実に私と向き合ってくれた夫を思い出させた。六十余年を共にしてきた日々を振り返り、腹の立つ時はこの写真を思い出そうと、アルバムから抜き出して、写真立てにおさめた。

 (滋賀県彦根市 三宅春代 主婦 89歳)

 *年齢・肩書などは掲載当時

 ■人生の最後、それぞれの準備 日記の処分、葛藤に反響/めかし込んで遺影撮影

 人生の最後を自分らしく締めくくる「終活」。2012年の「新語・流行語大賞」でトップ10に入ったこの言葉がひとときに初めて登場したのは、その年の9月だった。川崎市の公務員(当時48歳)の「すっきり生きていく」だ。

 「今年、父を見送った。父らしくタンスの中は整理され、昨日まで着ていた日常使いの服が入っていただけ。(中略)この父の姿は心に残った」「目下、着ない服を処分して、『終活』の真っ最中である。すっきりしたタンスは掃除しやすいし、朝の服選びの時間も短縮できる。身軽になって生きていこう」

 15年に掲載された東京都世田谷区の主婦(当時91歳)の「3年か、5年か」は日記帳の終活をめぐる葛藤について。「残しても困るでしょうし、古紙にするには忍びなく、心が痛みます」「そして、新しい日記帳を3年にしようか5年にしようか、再び迷っております」。反響が多数寄せられ、後日特集記事が組まれた。

 19年には千葉県市川市の無職(当時81歳)の「遺影づくりを自分で」があった。「孫の結婚式を機に自分の遺影づくりを思い立った。(中略)一世一代とばかりにめかし込み、式の合間に、自分のスマートフォンに何枚も写真を撮ってもらった」。パソコンでの修整作業は「胸から上をぐっと拡大してほうれい線を短くし、ほくろを消し、シミとしわは取りすぎないようほどほどに」と朗らかだ。

 若い世代からも。名古屋市の自営業(当時39歳)は「『終活フェスタ』で考えた」(16年)で、棺おけに入った感想を「横たわると、意外に寝心地が良い」「生きているうちに自分の『死』を考え、準備をするということは、想像していたほど暗いことではない」と前向きだ。

 「終活」という言葉を記した投稿は55件。関連する言葉では、「断捨離」が10年に登場し52件、「エンディングノート」は04年から12件だった。

 ただ、特別な言葉は使わなくても、普段から死に向き合う気持ちをつづった投稿は以前からあった。1988年の東京都足立区の主婦(当時61歳)からの投稿がそうだ。「うちでは『死』が話題になると大いに盛り上がってきます」「元気なうちに、それを話題に楽しまないという手はありません。気がかりや、すべての思いが冗談半分のうちに遺言できて、心が落ち着くじゃありませんか」。内容は「終活」そのものだ。

 ◆対象にしたひとときの投稿は、朝日新聞データベースで検索できる1988年4月以降のもので、東京、大阪、名古屋、西部の各本社版のみの掲載も含んでいます。

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