あまりに無責任な対応だ。日本学術会議の会員人事をめぐる問題で、菅首相は同会議から提出された105人の推薦者名簿を「見ていない」と述べた。目にしたのは、任命した99人のリストだけだという。

 6人を拒否したのは任命権者である菅首相自身の判断だというのが、政府側の一貫した説明だった。「公務員の選定や罷免(ひめん)は国民固有の権利である」と定める憲法15条を持ちだし、首相は主権者である国民に責任を負わねばならない、だから首相に会議の推薦どおりに任命する義務はない――と言ってきた。

 ところが、元のリストを首相は見ていないという。では誰が6人を除外したのか、という当然の疑問が浮上する。

 加藤官房長官はきのうの会見で「決裁までの間に、首相には今回の任命の考え方について説明が行われている」と述べ、問題はないとの認識を示した。

 「考え方」とは何か。それを踏まえて、いつ、どの部署の人間が、どんな権限で、いかなる資料をもとに6人を不適としたのか。首相にはどういう説明がなされ、首相はどんな検討をして、それを了としたのか。

 「国民に対する首相の責任」を言う以上は、一連の経緯をつまびらかにする必要がある。加藤長官は「詳細は控える」と、例によって「人事の秘密」に逃げ込む構えだが、学術会議も当の学者たちも任命拒否の理由を明らかにするよう求めている。政府の明確な説明なくして、国民の疑念が晴れることはない。

 何か答えるたびに新たな問題が生じ、ほころびが露呈する。安倍政権の森友・加計疑惑や桜を見る会と同じような展開になっている。人事を通して組織を操ろうという思惑が見え隠れする点では、東京高検検事長の定年延長問題を想起させる。

 定年に達した後も現職にとどめる異例の閣議決定をし、過去の国会答弁に反すると指摘されると「今般、法解釈を変えた」と開き直る。そうした不誠実な対応の積み重ねが多くの人の不信と怒りを招いた。

 検察が政治からの独立を求められるのと同様、学術会議もまた、政府からの独立・中立が組織を根底で支えてきた。

 政府自らが設けた有識者会議も5年前の報告書で、学術会議が科学者の自律的な集団であることに存在意義を認め、「政府の諸機関との役割の違いを明確にし、あくまで学術的な観点からの見解を政府に提示するのが役割」と述べている。

 首相は報告書にある「俯瞰(ふかん)的」という言葉を、任命拒否を正当化する理屈にしようと躍起だが、読みとるべきは報告書を貫くこの基本的な考えである。