広島はあす、被爆75年を迎える。米軍が投下した原爆による未曽有の殺傷と破壊は、核時代の始まりを人類史に刻んだ。

 その恐怖を象徴してきた一つの物差しがある。米国の専門誌「原子力科学者会報」が、広島・長崎原爆の2年後から発表してきた「終末時計」だ。

 核による人類滅亡までの残り時間を見積もり、針が動く。今年1月、過去最悪となる「残り100秒」まで来てしまった。

 

 ■一触即発のリスク

 核の拡散防止や軍縮の枠組みが揺らぎ、サイバーや宇宙も絡んで軍拡が進む。米国と中国の「新冷戦」など、大国間の競争が再来したともいわれる。

 あの惨禍から75年という時を隔て、「核の復権」という言葉さえ飛び交う現実に、日本と世界はどう向き合えばいいのか。

 何が世界の脅威か、予想は実に難しい。そう痛感させる出来事が今年、起きた。新型コロナによる感染症である。

 目に見えないが国境を越え、人間を分け隔てなく脅かす存在を、誰もが実感した。一方で、その間も、途方もない数で存在する核兵器による「終末への秒読み」は止まっていない。

 ウイルスは、たとえ人類が団結してもすぐには消えない。だが、核の脅威は人間が生み出したものだ。リスクを減らすための確固たる政治的決断があれば、変えられる。

 今月、長崎での国際平和シンポジウムにオンライン参加したペリー元米国防長官は「文明が今後も存続するのか、運まかせにしてはならない」と戒めた。

 大半の核兵器は、一触即発の臨戦態勢に置かれている。戦争の意図がなくとも、偶発や誤算から核攻撃の応酬がおきる危うさと隣り合わせだ。

 そんな態勢が続く土台には、核抑止の考え方がある。「もし敵の核攻撃を受けたなら、必ず核で報復し滅ぼす」と互いに脅し合う。それで逆説的に安全が保たれるという理屈だ。

 そこには本質的に矛盾がつきまとう。国家同士が不信に基づき、大量破壊兵器を突きつけ合う限り、互いの警戒心が軍拡を促し、リスクは高まる。

 ひとたび「恐怖の均衡」が崩れれば、ミサイルの標的の下に置かれる一人ひとりにとって、核兵器は助けにならない。

 ■「人間の安全保障」へ

 いまこそ、抑止論にもとづく安全保障の概念を根源から問い直すときだ。紛争に対応する軍事力の役割はあるにせよ、軍事一辺倒の「安全」確保には限界がある。

 人間の命を脅かす多種多様なリスクを総合的に捉え、持続可能な資源配分を考える。国家主体でなく、生身の人々の暮らしと命に着目する「人間の安全保障」への転換が求められる。

 気候変動対策や医療支援などを進め、地球規模で均衡のとれた安定的発展を図る。そのために多国間で協調する枠組みこそが世界の安全に欠かせない。

 その点で、核保有国の考え方は逆行している。

 コロナ禍で世界最悪の被害を出している米国は、核軍備支出で世界のほぼ半分を占める。核廃絶キャンペーン組織「ICAN(アイキャン)」によると、その支出を感染症対策に向ければ、集中治療室30万床、人工呼吸器3万5千台、医師7万5千人と看護師15万人が確保できるという。

 大国だけではない。北朝鮮など冷戦後に核開発に走った国々は、いずれも医療水準に問題を抱えている。そんな矛盾を変えていくためにも、まず世界の核兵器の9割を専有する米国とロシアが削減に動くべきだ。

 ■核禁条約に関与を

 両国に残る唯一の核軍縮ルールである新戦略兵器削減条約(新START)は、来年2月に期限を迎える。青天井の軍拡を防ぐために、両政府は延長の合意を結ばねばならない。

 リスクの削減策として、核の「先制不使用」宣言や警戒態勢の緩和も実行すべきだろう。

 やがては中国を巻き込む軍縮体制づくりを急ぐ必要があるが、それには米ロが行動を始めなければ道は開けない。

 「核兵器は非人道的であり、二度と使わせてはならない。その唯一の道は、国際法で違法な存在と位置づけることだ」。3年前に採択された核兵器禁止条約には、そんな認識がある。

 批准国は着実に増え、年内の発効もありえる段階まで来た。広島・長崎の被爆者が我が身をあかしに長年訴えてきたことが国際的に定着し、違法化にまで至ろうとしている。

 だが日本政府は、日米安保条約で米国の核による拡大抑止、いわゆる「核の傘」の下にいることを理由に、条約に背を向けている。狭い安全保障観にとらわれ、真の国際潮流から目を背ける態度というほかない。

 日本は核保有国と非保有国との橋渡し役を自任している。ならばなおさら、核禁条約への加盟を視野に関与すべきだ。加えて、核保有国に先制不使用の宣言や、多国間の核軍縮交渉を促す。そうした努力こそが戦争被爆国としての責務である。