(社説)2019―2020 観覧席にいるあなたへ

社説

[PR]

 東京都・日の出ふ頭の待合所で、傘をさしたネズミに会ってきた。「バンクシー作品らしき」落書きである。描かれた場から切り離され、都に「落書きは容認できないが、」と注記されつつ、「お正月」の演奏が流れる中でうやうやしく展示されたネズミは生気を失っている。

 私たちが鑑賞しているのは高名なアーティストであるバンクシーという名札? それとも、オークションでは億の値がつく作品の値札、だろうか。

 ■素っ裸で疾走する人

 バンクシーの作品集にも傘をさしたネズミは収録され、こんな小文が添えられている。

 「人類(ヒューマン・レース)ってやつは、もっとも愚かで不公平な類の種族(レース)だ。大半のランナーは、まともなスニーカーやきれいな飲み水さえ持っていない。/生まれつきすごくラッキーなランナーもいて、そいつらは道の途中でも手厚くケアされるうえに、審判まで味方みたいだ。/多くの人が完全に競争をあきらめて、観覧席に座りこんで、ジャンクフードを食べながらヤジを飛ばすのも不思議じゃない」(廣渡太郎訳「Wall and Piece」)

 「令和元年」の祭りばやしが鳴り響いた2019年の日本でも、そんな光景をあまた目にした。社会の分断? それにしては見物人が多すぎやしないか。

 こんなゲームはおかしい。

 みんなが抗議の声を上げれば、ルールは変えられる。なのに多くの人はずっと手前であきらめて、観覧席に退却する。

 なぜだろう?

 小文はこう結ばれる。

 「人類(ヒューマン・レース)に必要なのは、もっと大勢のストリーカーだ」

 ストリーカーとは「素っ裸で人前を疾走する人」(自然科学系英和大辞典)。努めて穏当に意訳すれば、空気を読まず、秩序を攪乱(かくらん)する人、という感じか。

 観覧席で飼いならされるな。

 許可なく生存し、嫌われ、迫害されてもなお文明を食い破る可能性を秘めているネズミは君の究極のお手本だ――バンクシーはそう言っている。たぶん。

 ■小さな島の小さな話

 それにつけてもランナーと見物人を分かつものは何だ? 問いを携え瀬戸内海の島に渡る。

 広島県・尾道港からフェリーで50分、人口500人弱の百島(ももしま)で、今月15日までアートイベント「百代の過客」が開かれた。企画・運営したのは、島に移住した20代の男女4人。「芸術とプロパガンダ」など三つのテーマをしつらえ、作家や識者、一般参加者が語らう対話企画を主軸に、昭和天皇の肖像をコラージュした作品などを展示した。

 「不便な島だからこそ、作品とじっくり向き合い、考えてもらえると思いました」。島に住んで約3年、映像作家の八島良子(やしまりょうこ)さん(26)は話す。

 ところが、先行したあいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」で、天皇コラージュの作者の映像作品が苛烈(かれつ)な批判にさらされ、「余波」は百島にも及んだ。広島県や尾道市に抗議が寄せられ、会場には急きょ警備員が配置された。

 「ひどい展示だった」。ネットには罵詈(ばり)雑言が連なった。だが、会場で罵詈が飛ぶことはほとんどなく、不快や不可解は、「なぜこんな展示を?」の質問として発せられることが多かったと八島さんは振り返る。

 対話企画の最終回、登壇した作家と、「公金を使って不快な作品を展示するのはおかしい」という参加者が対立した。公金は今回使われていないと説明するも、「許せない」「不快な芸術もある」と議論は続いた。そして最後、参加者が「同意はできないが、あなたのような人がいることは理解する」と言い、二人は握手を交わしたという。

 過疎が進む小さな島で生まれた、とてもとても小さな話。でも、そこからしか始まりようのないお話。観覧席を出なければ見ることのできない風景。

 ■橙と「百代の過客」

 「永久に止まらずに歩き続ける旅人」。そんな意味が「百代の過客」にはあり、企画した4人はこう思いを込めた。「芸術は時に挑発的でもありますが、それは複雑な社会を表現し、自由な精神を求めて戦い続けているからです。本企画が『私たちはどこに向かって歩き続けるべきか』という一つの問いかけとなることを期待します」

 会場を出て、帰りのフェリーの時間まで島内を歩く。路地に入れば、朽ちた何戸もの廃屋に行き当たる。年かさの男性が黄色い実を収穫していた。橙(だいだい)だ。「正月飾りをする人が減ってダメになりかけてたんだけど最近の健康ブームで国産の需要がものすごく増えた」と一息で説き、ひとつくれた。イベントの中傷ビラがまかれたと聞いていたので、それとなく水を向けると「もっと人が来るかと期待してたんだけど。でも最近ちょっと有名になったみたいね。よかったね」と言って笑った。

 月日は百代の過客にして、行(ゆき)かふ年も又(また)旅人也(なり)

  (松尾芭蕉「奥の細道」)

 来年は子(ね)年。さて、どこに向かって歩き出しましょうか。

有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。

【お得なキャンペーン中】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら