プロ野球の広島カープで連続試合出場記録を樹立し、引退後は野球解説者を務めた衣笠祥雄さんが逝った。71歳だった。記録という数字に追われながら、1970、80年代のカープを支えた一人。人なつっこい笑顔が印象的だった「鉄人」の突然の旅立ちに、悲しみが広がった。▼1面参照

 「江夏豊の21球」の時の衣笠祥雄さんの姿が、やはりまぶたから離れない。1979年だった。広島と近鉄の日本シリーズ第7戦。リリーフエースの江夏は、ピンチをむかえていた。1点リードの九回裏一、三塁。広島の古葉竹識(たけし)監督は池谷公二郎と北別府学にブルペンでの投球練習を命じた。延長戦も想定しなければならない。監督としては当然の判断だ。が、江夏の表情が変わった。「何しとるんや。おれに、よう任さんいうのか」。そんな気持ちを衣笠さんだけが察知したのだ。無死満塁になり、マウンドへ行った。「お前がやめるなら、おれも一緒にやめてやる」。瞬時に言った。これで江夏は落ち着いた。ピンチからの脱出は、この衣笠さんの一言がなければ生まれなかった。デリケートな人だった。極めて繊細で人の心を思いやるアスリートだった。

 「鉄人」と呼ばれた。連続試合出場の記録を持っていたからだ。79年8月1日の巨人戦で西本聖から死球を受け、左の肩甲骨を骨折した。しかし、次の試合で代打で登場し、連続試合出場は続いた。この試合の打席は江川卓に対し、フルスイングでの三振だった。「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のためにフルスイングしました。それにしても江川君の球は速かった」。試合後、そう話した。次の試合はフル出場し、ファンを驚かせた。

 実は連続出場記録にこだわった人ではない。逆にこの記録にしばられた人だといってもいい。

 87年に大リーグのルー・ゲーリッグが持っていた記録を抜いた。が、力が衰えながら記録を更新しなければならないことに、自分自身、納得がいっていなかった。96年だった。カル・リプケンが衣笠さんの記録を抜いた。そのお祝いに渡米する直前、ホテルのバーでご一緒したことがあった。「自分の判断で記録を止めることができなかったんだよ。仕方がなかった。でも、やっとリプケンにバトンを渡せたよ」。なんともいえない笑顔だった。

 引退してからは、朝日新聞社嘱託として、評論活動をお願いしていた。普通、野球評論家の原稿は聞き書きするのが当たり前なのだが、衣笠さんは必ずご自分で書いてきた。行数を守っていただけないので、削るのに苦労するのだが、野球に対する愛情と誠実さがひしひしと伝わってきた。

 記者の食事会にもつきあってくださり、若い記者の質問にも、気軽に答えてくださった。偉ぶったところの全くない存在だった。

 (元朝日新聞編集委員・西村欣也)

 ■赤ヘル打線、広島に勇気

 衣笠祥雄さんのプロ野球人生は、被爆地・広島とともにあった。

 衣笠さんは、1965年に入団。当時球団は50年の創設以来Aクラス入りを果たせず、低迷を続けていた。次第に頭角を現した衣笠さんは山本浩二さんらと「赤ヘル打線」の中軸を担い、75年にはチームをセ・リーグ初優勝に導き、79、80年には2年連続日本一を果たす原動力になった。

 衣笠さんにとって、原爆ドームと道を挟んで向かい合う旧広島市民球場は特別な場所だった。「野球を思う存分できることは、戦争で志半ばで倒れた人もいることを思えば、なんと幸せなことだろう」。こう思いをはせていたと自著で打ち明けている。

 4歳の時に被爆し、体験を伝えている伊藤正雄さん(77)=広島市佐伯区=は、苦しい時にも、フルスイングする姿が印象に残っている。「『なにくそ』と頑張る姿に勇気づけられた」

 ■リプケンさん「友で誇り」

 大リーグで2632試合連続出場の記録を持つカル・リプケンさん(57)は衣笠さんの悲報に対し、朝日新聞にコメントした。「愛する野球に臨む覚悟や気持ちについて、衣笠さんと私は同じ考え方を持っていた。彼と育んだ友情は、私にとってかけがえのない価値があり、親友でいられることを誇りに思っていた。偉大な選手であり、衣笠さんから感じる器の大きさを尊敬していた。本当に悲しい」

 ■江夏さん「早すぎた」

 1979、80年に衣笠さんと一緒に広島の日本一連覇に貢献した左腕・江夏豊さん(69)は「いずれ誰しも行く道だけど、早すぎた。3日ぐらい前に電話で話したところだった。その時はまあまあ元気だったよ。19日に横浜の試合でしゃべっていて、声が出ていなかったから、『声出とらんぞ。無理するな』と。そしたら『わかった、わかった』と言っていた。ちょっとの間、1人で寂しいけど、すぐに追いかけるから」と話した。

こんなニュースも