今からちょうど100年前の1923(大正12)年9月1日、記録に残る限り、日本の自然災害としては史上最悪という関東大震災が起きた。
約3500ヘクタールの市街地が焼失し、死者・行方不明者約10万5千人のうち、約9万2千人が火災で命を落とした。延焼の要因となったのが密集した木造住宅地。今も首都・東京が抱える深刻な課題の歴史をたどる。
都市防災に詳しい明治大学復興・危機管理研究所客員研究員の中林一樹・都立大名誉教授によると、東京の木造住宅密集地域(木密)の原点は江戸の城下町にさかのぼる。敵兵の攻略を防ぐため、家屋を密集させ、道を迷路のようにして、町全体を見渡せないように造られた。
武家屋敷が多かった江戸城の山手側に対し、東側を埋め立てて町人の街として木造長屋が密集した下町だった。江戸城が皇居に、大名屋敷が官庁街になったが、街の基本構造は明治・大正時代まで変わらず、関東大震災の被害拡大につながった。
国の中央防災会議がまとめた報告書によると、東京市(当時)の焼失面積は約3465ヘクタールに上った。東京市の4割超が焼けるというすさまじい猛火だった。
東京府(当時)の被害は、焼失家屋が17万6505棟。死者7万387人のうち、実に95%の6万6521人が火災で亡くなった。
政府はさっそく復興に動き出す。4カ月前まで東京市長を務めていた後藤新平内務大臣を中心に「帝都復興事業計画」を策定し、約3600ヘクタールの被災市街地で、幹線道路や、公園の整備、大規模な土地区画整理などに取り組んだ。
靖国通り、昭和通りなど今も東…