東京電力福島第一原発から出る処理水の海洋放出が迫るいま、なぜ国民的議論が必要とされるのか。県内漁業の復興に携わってきた福島大食農学類の林薫平准教授(44)に聞いた。

 ――2021年4月、菅政権(当時)は海洋放出の方針を決めました。

 方針決定は「だいぶ強引な結論」と感じました。政府が20年4月から10月にかけて開いた「ご意見をうかがう場」では、県内外の自治体や農林水産業界など様々な団体のトップが、海洋放出は復興の妨げになるとして「今は困る」と言い続けましたが、結果的に受け流された。政府は地元の状況を見ているのかと大きな疑問が残りました。

 ――処理水の処分方法を検討する経済産業省の小委員会は20年2月、大気または海洋への放出とする報告書を出しています。

 小委の報告書のメインメッセージは「この報告書を踏まえ、広く国民や消費者を巻き込んだ議論をしてください」というもの。結論が「専門家によって2択に絞られた」とするのは経産省流の要約と言えます。

 ――処理水の問題はなぜ国民的な議論にならないのでしょうか。

 「風評」という言葉の使われ方が一因ではないでしょうか。放射能の影響や処理水の海洋放出に不安を訴えたり、懸念を示したりすることを復興の流れに逆行するものとし、「復興を邪魔する風評だ」「風評をあおるな」などという巧みな言い回しが編み出されました。(正確ではない情報に基づいて福島県産品を避けるなど)「風評加害」という言葉もあります。

 福島第一原発事故以前から、反原発の運動はありました。こうした運動や声を面倒だと感じていた原子力産業をはじめとした原発推進派にとって、「風評」は反対を封じるための魔法の言葉になりました。

 一方で、県民が「風評」という言葉を口にすることも多い。ただ、この場合は「安全性を検査し、対策したのに、まだお客さんが来ない」など、非常につらい思いを託す意味で使っています。本来、この苦しみは「風評」という二文字では語りきれないはずですが、「風評」以外の言葉を見つけられていない。

 ――県民の中でも、処理水や原発政策について、議論が活発にならないのはなぜですか。

 「原発が危ない」というイデオロギー的な論争に巻き込まれたくない、というのが一つ。「フクシマ」というカタカナ表記へのアレルギーや、食べ物も観光も福島のものは丸ごと避ける状態に戻ってほしくないという思いもある。だから、もし福島から原発に関して批判的なことを言ったら、世の中がどんな反応を示すのかを恐れているのです。

 もう一つは、中通りや会津の人たちが「原発事故のことばかり考えていられない。平時に戻りたい」と思っているから。とても自然なことですが、そうすることで、双葉町や大熊町、漁業者に局所的な負荷がかかっている現実もあります。

 ――意見が二分されたまま、議論も深まらない現状を解決するには、いま何が必要でしょうか。

 議論を始める前提として、東電が廃炉にかけられる時間と金、スペースなどについて、都合の悪いことも含めて明らかにすることです。

 国と東電は、処理水の海洋放出が必要な理由を「新たにタンクを置く場所がない。もう時間がない」と説明していた。だが、政府が海洋放出の方針を決定したあとの21年8月、東電は突然、沖合1キロまでの海底トンネル工事に350億円かける計画を追加し、丸2年を費やしています。その間もタンクは増えています。

 もう一つ、国と東電が処理水の安全性を説明するのと同じくらい、福島県、特に浜通りの復興の状況にも国民の関心をひきつける工夫をし、放出について冷静に判断できる材料を提供することも必要です。多くの国民が参加できる形で考えた上で「どうしても処理水は福島の海に流すしかない。しかし、放出後は国民全体でサポートしよう」などの結論はあり得る。

 ――なぜ国民的な議論が必要なのですか。

 処理水の問題は、福島第一原発の廃炉においてはほんの一里塚。今後も福島は様々な判断を迫られるでしょう。廃炉に加えて最終処分場や核燃料サイクルをめぐり、福島だけでなく、北海道や青森など原発が立地する各地は、国と議論や交渉をしなくてはいけない。

 国は原子力政策について長い間、立地地域以外の国民には意思決定をさせず、説明だけはする相手という「お客」にしてきました。国民も責任を免れてきました。でも今、非常に大切な分岐点に来ています。国民は「お客」から「意思決定の主体」になるときです。

 今回の処理水放出をめぐり、国民がこれまでと同様に傍観者のまま政府の決定を許してしまうと、今後の原子力政策でも、特定の地域への押しつけが固定化する恐れがあるのです。(力丸祥子)

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