越谷市立図書館で野口冨士男文庫特別展、戦争時代の苦悩に光をあてる

佐藤純
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 埼玉県越谷市ゆかりの作家・野口冨士男(1911~93)が描いた戦前から戦後にかけての時代と、作家たちの苦悩に光を当てる特別展「『暗い夜の私』の世界――文壇史と時代を甦(よみがえ)らせる野口冨士男」が、市立図書館で開かれている。

 東京・麴町生まれの野口は学生のころに執筆活動を始め、出版社や新聞社で働きながら創作を続け、同人誌などに発表した。第2次世界大戦末期に海軍に召集されて体調を崩し、終戦から約1年半、妻の実家があった越谷市に身を寄せた。その後は東京に戻り、「徳田秋声伝」「わが荷風」「かくてありけり」などを発表した。日本文芸家協会理事長も務めた。

 没後の94年、蔵書や直筆の原稿、日記など約3万点の資料が、生前の約束に基づいて市立図書館に寄贈され、野口冨士男文庫ができた。図書館は毎年秋に特別展を開いている。

 今回は、今年4月に小学館から「暗い夜の私」が再刊されたことを受け、収録された7編の短編の舞台になった時代を、作品が最初に発表された60年代の雑誌など74点の資料でたどる企画を用意した。7編はいずれも、激動の歴史を背景に野口と周囲の作家らの日常や葛藤をモチーフにした。

 私小説「その日私は」は、歴史上の節目の日を描く。日本が太平洋戦争を始めた41年12月8日、開戦を知った野口は、家族を連れて新宿にアメリカ映画を見に出かけた。野口は「米英を敵にまわすなどということは狂気の沙汰としか考えられなかった」という冷静な分析とともに、「戦争とは違うものを懸命になってもとめていたのであった」との心境を作品に記した。

 陸軍将校らが閣僚や軍幹部を殺害した36年の二・二六事件のころ、野口は東京・内幸町にあった都新聞(現・東京新聞)の校正部で働いていた。皇居・半蔵門そばの自宅前で、鎮圧に出動した部隊の兵士が、剣の付いた銃を持って立っているのを見た。作品の中で、「そのにぶい光の尖端(せんたん)に、軍国主義日本の切っ先を私は感じた」と振り返った。

 特別展で展示されている遺品の地図からは、日本が破局に向かう契機になった大事件に、野口がすぐそばで目をこらしていたことが見て取れる。

 主に40~44年の出来事を取り上げた「深い海の底で」。野口と仲間の作家たちは、声高に反戦をとなえたわけではないが、「時局に迎合しない」という心意気を持ち続けた。仲間たちの作品は次々と検閲に引っかかり、発売禁止に。野口は作品で、「警察や憲兵の存在が日本文化を大きく左右していた」と述べた。

 特別展には1枚の案内状も並ぶ。42年に文学者らの戦争協力組織「日本文学報国会」が設立され、野口に届いた発会式の案内状だ。祝辞の1番手は、大政翼賛会総裁だった首相兼陸相の東条英機。東条を初めて見た野口は「大した役者だな」と印象を記す。

 野口は、報国会が関係し、日本の勢力下のアジアの文学者を東京に集めて開いた「大東亜文学者大会」にも出席した。大会の様子を「愚劣」「滑稽」と作品の中で酷評している。

 「真暗な朝」は越谷時代を描いた作品。復員後も体調不良が続いた野口は、「明らかな戦争後遺症」と振り返った。戦時中の著作を「あれはいけなかった」と悔いる言葉も残した。

 図書館によると、「あれ」は、戦場の兵士の労苦に触れ、銃後の市民に「母国の国民であるという自覚」を説いた雑誌の巻頭言などを指すとみられる。

 12月22日まで。無料。(佐藤純)

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