第1回たった1枚の家族写真に「行ってきます」 82歳は今日も夜間中学へ

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 日本一高いビル「あべのハルカス」が目の前にそびえる大阪市のJR天王寺駅。そこから徒歩7分ほどの市街地に、その学舎(まなびや)はある。

 生徒たちが部活動を終えて帰宅しても、校舎の隅にある教室だけは1階から3階まで煌々(こうこう)とあかりがともっている。

 昨年8月末。時計の針は午後7時を回っていた。1階の教室で続いていたのは、2学期最初の英語の授業。入学してまだ数日の石田稔さん(82)は、配られたプリントに氏名を記入する欄があるのを見て、緊張した。

 イシダの頭文字の「i」は、小文字がええんやろうか。いや、たぶん大文字やな……。

 鉛筆で一文字ずつ丁寧につづった。

 Ishida Minoru

 少し恥ずかしかった。アルファベットで名前を書くのは、ローマ字を習った小学校高学年以来。おそらく70年ぶりだ。

 書き上げた文字を眺めていると、うれしさがこみ上げてきた。

 「こういうことも、あるんやなあ」

 ここは天王寺中学校夜間学級、通称「天王寺夜間中学」。今年2月15日現在、4クラスに49人の生徒が通う。石田さんは、16~82歳の計17人が在籍する「F組」の最年長だ。

 入学から2カ月あまりして担任に提出した作文は、こう始まる。

 《今年八十二歳になった私は一人で生活しております。日々平凡な暮らしの中、何か物足りなさを感じていました。これでは認知症になるかもしれない。他人には絶対に迷惑をかけたくないという思いから夜間中学校へ行くことを決意したのです。》

妹2人の学費のため…「年340日働いた」

 1939年、神戸市で生まれた。6歳の時に戦火を逃れ、母親の実家がある岡山県に疎開した。幼い妹を背負いながら祖父の農作業を手伝う毎日。小学校は卒業したが、中学校には通わせてもらえなかった。

 10代半ばで神戸市に戻り、新聞やパンの配達、くず鉄拾いをした。19歳で電車の部品を作る会社に就職した。

 20代半ばで大阪市内の衣料品会社の会長専属運転手に転職。入社時の研修で礼儀作法や言葉遣いを厳しく指導された。「せめて高校までは出ておきたかった」と悔やんだ。

 ほどなく父が亡くなった後は2人の妹の学費を支援し、上の妹は大学まで卒業させた。

「年間340日は働いていた」という生活だったが、結婚して2児に恵まれた。

 帰宅はいつも深夜。妻の淑子(としこ)さんが作ってくれるポテトサラダをつまみに、缶ビール1本を飲みほすのが何よりの楽しみだった。

様々な事情を抱えた人たちが、学び直すために通う「夜間中学」。近年、外国出身者や不登校のまま卒業した人の受け皿として、国が増設の後押しを進めています。しかし昨年、大阪市では4校を3校に統廃合する計画が明らかになりました。廃止の方針が伝えられている夜間中学の1校を訪ね、それぞれの学ぶ喜び、これまでの人生を聞きました。

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