「戦国最強」島津兄弟、手紙から性格読み解く 意思決定も対照的

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今井邦彦
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 戦国時代、一時は九州の大半を制覇し、「戦国最強」とも評される南九州の島津家。その当主だった島津義久(1533~1611)と、弟の義弘(1535~1619)の評伝が刊行された。歴史研究に基づく評伝が出るのは、義久は初めて、義弘も100年ぶりだという。最新の研究成果で、2人のイメージはどう変わったのだろうか。

 この評伝は、新名一仁・志學館大非常勤講師(日本中世史)が執筆した「『不屈の両殿』島津義久・義弘 関ケ原後も生き抜いた才智(さいち)と武勇」(角川新書)。大友家、龍造寺家との戦いや、豊臣秀吉への降伏(1587)、2度の朝鮮出兵(1592~93、97~98)、関ケ原の戦い(1600)と、度重なる島津家存続の危機をどう乗り越えたのかを、2人が残した手紙や公文書などを元に追った。

 「義久、義弘兄弟をめぐっては、江戸時代以降に軍記物などで広まったイメージが定着し、実像に迫る研究が遅れていた」と新名さんは指摘する。例えば、朝鮮出兵に従軍した義弘が、その強さで明(みん)(中国)や朝鮮の兵に「鬼石曼子(鬼島津)」と恐れられたという逸話。また、関ケ原の戦いで石田三成率いる西軍に属した義弘が、撤退のために少数の手勢で敵を正面突破する際、兵が少人数ずつ立ち止まって敵を足止めし、味方を逃がしたという壮絶な「捨てがまり」の逸話。どちらも戦国~江戸初期の史料に記述がなく、後世に生まれたエピソードらしい。勇猛な武将として義弘の人気が高かったことを物語るが、戦場での活躍は目立たない義久には、あまり関心が持たれてこなかった。

開けっぴろげな弟、慎重な兄

 義弘が残した手紙は、どれも…

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