「日本海に津波来ない」 不意打ちで消えた100人の命

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高橋杏璃
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 ゴーという音とともに、白波が次々と岸に向かって押し寄せる。係留ロープが解けたのか、波間を漂う小舟が、勢いに押されてクルクルと船首の向きを変えた。「うわーすげえ」。興奮した様子の子どもたちの声が聞こえてくる。

 1983年5月26日の正午すぎ、秋田県男鹿市の中学校教諭だった船木信一さん(62)は、秋田県沖に津波が襲来した瞬間を高台のグラウンドからビデオカメラで捉えた。

 目の前で動く津波を見るのは初めてだった。「リアリティーがなさすぎて、映画のワンシーンのようでした」

日本海中部地震 津波をとらえたビデオ

 地震が起きたとき、船木さんは学校の体育館でバレーボールの授業中だった。突然、立っていた審判台がガタガタと揺れた。「地震だ」。天井で揺れる照明を見上げながら、ふと我に返った。「自分は先生だ。生徒を避難させないと」

 当時24歳。新米教師として、4月に初めて赴任したのがこの学校だった。まだ避難訓練をしたことはない。とりあえず屋外の方が安全だろうと、生徒たちをグラウンドに避難させた。

 津波に気づいたのは、全員の安全を確認し終えたころだった。生徒の一人が「沖の方が白い」と声を上げた。買ったばかりのビデオカメラを駐車場に止めた車に取りに行き、グラウンドの端へ向かった。高台から20メートルほど先の海を見下ろした。

 波がうねっていた。白い波は連なり、だんだんと帯のように太くなって県北部の能代方面へと向かっていくのが見えた。能代市では護岸工事の作業員ら36人が大津波にさらわれるなど、県内最多となる人的被害が後に確認されている。

 その日は生徒たちを家に帰したあとも、まちなかの様子を撮り続けた。防波堤に乗り上げた船、縦に亀裂が入った道路、ぺしゃんこにつぶれた車――。被害状況を伝えるラジオのニュースを聞きながら、車を走らせた。

 いまも心に残るのは、冷たい風が吹く夕暮れ時、市内の加茂青砂(かもあおさ)地区の海沿いで見かけた女性の姿だ。救助なのか報道なのか、頭上をヘリが飛び、無線でやりとりをする警察官が行き交う中、女性は体に毛布を巻き付け、海の方をじっと見つめていた。加茂青砂は、遠足に来た子どもたちが亡くなった海岸だ。「津波に遭った子の保護者かもしれない。いたたまれなくなって、撮るのをやめました」

 動画を撮ったときの心境を思い返すと、使命感というよりも、物珍しさが優先してビデオを回した記憶がある。「撮ってよかったのかなと、罪悪感を感じることもありました」。それでも教訓になればと、以来授業を受け持ったすべての生徒に動画を見せて「地震が起きたら逃げなきゃだめだ」と言って聞かせた。

 後ろめたさが消えたのは、東日本大震災で被災した教え子から、動画で見た津波の威力を思い出して逃げて助かったと報告を受けたときだ。仕事で行った先の岩手県で地震に遭った際、渋滞でなかなか進まない車を捨てて電柱によじ登り、津波にのまれるのを免れたという。「映像は記憶に残る。記録に残してよかったなと思いました」

 船木さんの動画は、「日本海中部地震津波 The first video of tsunami shot from the side, Oga City, Akita, Japan(May 26th, 1983)」のタイトルでYouTubeで公開されている(https://www.youtube.com/watch?v=wA07BaY9rlA別ウインドウで開きます)。

予想しない早さで押し寄せ、100人の命を奪った津波。38年前の日本海中部地震から、私たちはどんな教訓を得たのでしょうか。当時を知る人や研究者を訪ね、日本海津波を考えました。記事の後半では、小学生の長女を亡くした遺族や、次の津波に備える住民たちの姿を伝えます。

100人をさらった津波 遠足の子らも

 日本海中部地震は1983年…

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