「タイタニック沈没す」 明治の新聞に刻まれた運命の夜

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岸上渉 阪本輝昭
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 1879(明治12)年1月25日に大阪で創刊した朝日新聞は2021年3月2日に5万号を迎えた。明治、大正、昭和、平成、そして令和と五つの時代の表情を記録してきた紙面は、情報伝達やコミュニケーションの発展史をそのまま映し出す史料ともなっている。

 世界史上に残る出来事を、当時の朝日新聞はどう伝えてきたのか。映画「タイタニック」(1997年)でも描かれた1912年の豪華客船タイタニック号沈没事故を手掛かりに探ってみると、当時の社会や新聞界の置かれた状況がリアルに浮かび上がってくる。

締め切り直前、突っ込んだ一報

 威容を誇る汽船が氷山に衝突――。その情報がもたらされたとき、東京の朝日新聞はすでに朝刊に記事を突っ込むことができる締め切り時間を過ぎていたようだ。東京より締め切りが遅かったとみられる大阪では、すんでのところで1面に短い第一報が入った。

 「大汽船タイタニック号はサザムプトンを発し最初の航海に上りしに十五日午前二時二十分北米ニューファウンドランド州レース岬付近にて氷山と衝突し沈没したり」

 1912(明治45)年4月17日付の大阪朝日新聞の1面にそのニュースは載った。電報をもたらしたのは、タイタニック号が出港した英国の老舗新聞社「ザ・タイムズ」。本文冒頭に「紐育(ニューヨーク)来電に拠(よ)れば……」とある。第一報はタイタニック号が向かっていた米ニューヨークからロンドンに届き、そこから日本へ転電されてきたようだ。

写真・図版

一回り大きな活字に込められた衝撃

 数年前からタイムズと特約関係にあった朝日新聞は同紙から海外ニュースを受け取り、「タイムス特電」として伝えていた。紙面の下段には夏目漱石の連載小説「彼岸過迄」が載っている。

 第一報は、短いフラッシュニュースながら、他の記事よりも一回り大きな活字が使われている。遠い海外のニュースとはいえ、当時の編集者たちが衝撃をもって受け止めたことが伝わる紙面だ。同じ日の2面では、別の通信社電をもとに「多数の溺死(できし)者ありと伝へ来れり」とも伝えているほか、左舷後方から撮影したとみられるタイタニック号の写真が掲載されている。

 翌18日が第一報となった東京朝日新聞紙面にも、タイタニック号の写真が載っているが、これは左舷前方から撮られた1枚で、大阪掲載のものとは別のカットだ。

 朝日新聞社史編修センターの前田浩次センター長は「この時代に写真電送は実用化されておらず、写真は郵便・船便で送るほかなかった」と説明する。となると、事故前からタイタニック号のストック写真が東京と大阪でそれぞれ保管されていた可能性が出てくる。あるいは外国通信社の日本支社から急いで取り寄せたのかも知れない。

 いずれにしろ、タイタニック号の存在が事故の前から注目されていたことは間違いないようだ。

「海上の贅沢」豪華設備にエレベーターも

 そのもう一つの証左として、タイタニック号は事故以前にも数回、記事に登場している。1908(明治41)年11月27日の東京朝日新聞には「世界第一の大船」との見出しで、運航会社のホワイト・スター・ライン社がタイタニック号の建造を発表したとの短い記事が掲載されている。

 また、就航直前の1911(明治44)年7月6日には「海上の贅沢」と題して、最新の船旅事情をまとめた大型記事を掲載。「タイタニック号の如き最新式汽船に至りては船内娯楽の設備としてテニスコート、人工乗馬……」などと豪華設備を紹介し、船内にエレベーターもある、と伝えている。

 前田センター長はこの時代について「(朝日新聞が)外国情勢全般への目配りをし、特派員を充実させていった時期」とする。加えて、当時は飛行機や飛行船が乗客を運ぶようになる前の時代。海を隔てた国に渡る唯一の手段は船舶だった。贅(ぜい)を尽くした豪華客船の建造・就航は日本の読者にも興味をもたれるニュースと判断された可能性がある。また、英国のザ・タイムズやロイター電報と契約を結び、情報源としていた関係からも、「(大西洋を航海する)タイタニック号の動向は情報として入ってきやすかったのではないか」と前田センター長は分析する。

大洋を渡る船旅 身近になりつつあった時代に…

 さらに、外国との行き来や客船の大型化が盛んになるなかで、大洋を渡る船旅は世の人々にとっても徐々になじみ深いものになりつつあった。1910(明治43)年4月6日~7月18日、朝日新聞は「第2回世界一周会」を主催、その旅行記を紙面で連載した。ニューヨークからリバプールまでの船旅も描いたが、この記事の中にも、建造中のタイタニック号の名前が出てくる。一行の乗った客船「バルチック号」はタイタニック号に比べれば小規模な客船だったが、記事は「此船の静かさ、縦にも横にも少しも揺がぬ。是でも船が動いて居るのかと疑ふ位……」と優雅な乗り心地を称賛してやまなかった。こうした経緯からも、当時の編集者たちが沈没の一報にどれほど大きな衝撃を受けたのかが想像される、という。

 朝日新聞は外電などをもとに沈没当時の惨状を事細かに報じた。映画「タイタニック」にも登場する、楽隊が最後まで船上で演奏を続けた場面も乗客の証言として報じられている。また、避難を促された女性が夫と離れ離れとなることを望まず、船に残って夫と運命をともにしたエピソードなども直後から伝えられており、極限状況における乗客らの立ち振る舞いが当時の新聞編集者たちの心も大きく揺さぶっていた様子がみてとれる。

 事故から6日後の21日、大阪朝日新聞は1面に「巨船沈没の教訓」と題する社説を掲載。乗船者数に対して救命ボートが不足していた事実などを挙げ、安全面の不備を厳しく難じた。「人類が科学の進歩に依頼して、『自然』の感情の爆発を無視するの、如何に危険なるかを示したり」「タイタニック号の沈没は現代の不用意と不真面目とを種々の方面より暴露したるの観あり」。これらの指摘は現代にも通じるものがありそうだ。

 沈みゆくタイタニック号からは「SOS」が繰り返し発信された。受信した船の何隻かが直ちに救援に向かったが、いずれもタイタニック号の位置とはかなりの距離があり、沈没までの約2時間40分の間に現場へ着くことはできなかった。

 無電を受けて救助に向かった船の中に「バルチック号」がいたことを、同じ21日付の東京朝日新聞が伝えている。大西洋の優雅な旅を楽しんだ「世界一周会」の参加者や記者たちは、その船名を再びこのような形で目にするとは想像もしていなかっただろう。

沈没間際まで遭難信号 映画と重なるシーン

 事故から半月あまりが過ぎた5月4日。東京朝日に、船と運命をともにしたエドワード・スミス船長、ジャック・フィリップス通信士の写真が並んで掲載された。スミス船長のキャプションには、タイタニック号が英サウサンプトンを出港した日(4月10日)に甲板上で撮られたもの、との説明がある。これらはストック写真ではなく、事故後に英国から送られてきたものとみられる。

 フィリップス通信士は、沈没間際まで船内から遭難信号を打電し続けたとされる。沈みゆく船の中で通信機にかじりつく姿は、映画「タイタニック」の中でも描かれた。職務に殉じた通信士の最期に当時の編集者たちが感ずるところがあったのか、あるいは届いた写真がたまたま船長と通信士のものだったのか。船長と並んで特に同通信士の写真が載せられている理由は紙面には記されていない。

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