魔女の宅急便、娘の絵はキキになった ほうきにラジオが

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聞き手・松本紗知
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 どうして男の子は魔女になれないの? 魔法って何? 『魔女の宅急便』を書くなかで、児童文学作家の角野栄子さんの中に浮かんだ様々な疑問。書き続ける中でたどり着いたテーマは「魔法は誰にでもある」でした。

 《1970年のデビュー作『ルイジンニョ少年』は、育児の合間に執筆していた》

 そのころ、娘は3歳ぐらい。目が離せないから、昼は画板を首にかけて、夜はひざの上に置いて机代わりにしていました。ものすごい集中力で書きましたね。

 当時は高度成長期で、夫はほとんど家にいなかった。うちだけじゃなく、どこも似たような状況だったと思います。一人取り残された気持ちにもなったけど、書いている間は、自分でいられました。

 娘はよく泣いて、眠れない夜もいっぱいありました。抱いても泣きやまない、外へ連れて行っても泣きやまない。そんなときは、私も一緒に泣いちゃった(笑)。

 そうすると、筋肉がちょっと和らぐの。人間、感情を隠していると、体がどんどん硬くなってしまうけど、はき出すと、意外とホッとするというか。まだ大丈夫、みたいな気持ちになるんですよね。

 《デビュー後しばらくは、誰にも原稿を見せずに書き続けた》

 それまでいろんな本を読んできたから、自分の書いたものがプロレベルに到達できていないことはわかったし、書いても書いても、いいとは思えなかった。

 それと、人に何か言われて、書くことが嫌いになったら嫌だと思ったの。人に見せないのはいいことでね、自由なの。

 誰にも邪魔されないで、自分で選択し、表現し、作り上げる。そういう素晴らしい世界を私は見つけたんだって、うれしかった。だから、失いたくなかった。

 そうして夢中で書いているうちに、自分の中から湧き上がってくるような自由な世界があることに気付いたんです。それを書けばいいんだと。

 7年たって、いいと思うものが二つできたので、一つはデビュー作を出してくれたポプラ社に持って行き、もう一つは投稿しました。それが、『ビルにきえたきつね』(77年)と、『ネッシーのおむこさん』(79年)です。

映画は宮崎さんの作品だと思っています」

 《1985年刊行の代表作『魔女の宅急便』が生まれた背景には、娘のリオさんが描いた1枚の絵があった》

 娘が12、13歳ぐらいの時に、魔女の絵を描いたんですね。

 その魔女は、ほうきにラジオ…

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