世界を震え上がらせたレクター博士の不気味な表情ではなく、近所にもいそうな好々爺(こうこうや)の笑顔が、パソコンのモニターに映し出されていた。
映画「ファーザー」で、今年の米アカデミー賞の主演男優賞を手にしたアンソニー・ホプキンスは、授賞式前にリモートでの朝日新聞のインタビューに応じていた。
新聞で実現したのは、フランスの1紙と朝日新聞のみ。しかも、受賞は逃したものの助演女優賞にノミネートされたオリビア・コールマンをともなって、である。
ともにイギリス出身で、過去にオスカー像を得ている名優なのに、高飛車さのかけらもない。終始リラックスした様子で出演作や演技について柔和な笑みで語ってくれた。
「言葉が私自身を役に押しやってくれた」
「脚本がすばらしく、題材もパワフルでした」
「脚本に忠実に演じただけで、特に準備はしなかったのです」
主演作「ファーザー」について聞くと、ホプキンスは自身の芝居はそっちのけに、シナリオの完成度ばかりを誇っていた。
演じたのは、同名のアンソニー、81歳。ロンドンで独り暮らしをする彼は、娘アン(コールマン)が手配した介護人を拒否する偏屈で嫌みな老父だ。かくしゃくとしてはいるが、現実と幻想の境があやふやになっている様子が伝わってくる。
そう、アンソニーは認知症を発症していたのである。
「羊たちの沈黙」(1991年)のハンニバル・レクター博士役でアカデミー主演男優賞を得た名優にとっても、認知症の老父役は難しさもあったのではないか。どんな下準備をしたのかと水を向けると、「特に準備するようなことはなかった」と即答する。
「だって、私はいま83歳ですよ! 重ねてきた年齢や経験値を、今回の役に反映させればいい。だから、難しさなんて感じず、むしろ楽だったのです」
演技を助けたのが、フロリアン・ゼレール監督らによる脚本だ。
2012年のフランスでの初演から30カ国以上で上演されてきた戯曲「Le Pe(eに`)re 父」を、作者のゼレール自身が映画用の脚本に仕立て直した。舞台は日本でも上演され、出演した橋爪功が読売演劇大賞の大賞・最優秀男優賞に輝いた。
ホプキンスは言う。
「脚本に書かれている言葉についていけばよくて、私的なインプットや準備はなくていい。言葉が私自身の体を役の方に押しやってくれたのです」
そして、よどみのない声で続ける。
「私はいつも脚本に従います。それは奇妙なサイコロジー(心理)かもしれないけれど、それが武器なんじゃないかと思うことがある。書かれている言葉について行くと、体や気持ちが自然に動くことがあるのです」
「それは私に言っているのか?」
熟練の先輩俳優の金言を、コ…
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