阪神佐藤輝明の父は柔道家 スーパールーキーどう育った

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内田快
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スポーツ好奇心

 昨秋のプロ野球ドラフト会議以降、阪神の新人、佐藤輝明選手(21)を幾度となく取材してきた。そのなかで「父が柔道家で、影響を受けてきた」ということを知り、ずっと気になっていた。

 4球団が1位で競合し、入団後も評価を上げ続ける大型ルーキーの父親とは、いったいどんな人物なのだろう、と。

 父・博信さん(53)は関西学院大准教授として武道などを研究する。3月上旬、研究室のドアをたたいた。

「食え食え食え」

 博信さんは大きかった。身長は183センチ。宮城県南部の村田町の兼業農家に生まれた。

 「『体が大きくなったらなんとかなる』というのが母の考え方で。『食え食え食え』という風に育てられて大きくなりました」と頭をかく。やっと食べ終わったと思ったら、もう次の食事が出る。そんな少年時代だったという。

 さとう・ひろのぶ 1967年、宮城県村田町生まれ。小学5年生で柔道を始めた。小学生の時は野球もしていたが、「センスがなく、限界を感じた」。日体大では後の五輪金メダリスト古賀稔彦さんと同期だった。20代後半で競技の一線から退き、指導者に。現在は関学大人間福祉学部准教授。武道を中心としたスポーツの指導や研究を行う。息子は3人おり、輝明選手は長男。次男の太紀(たいき)さんは関学大野球部に在籍する。

 博信さん自身、子育てで特に意識したのは、「人に迷惑をかけない」「いっぱい食べろよ」という2点だったという。佐藤家の食卓には毎日のように、魚と肉の両方が並んだ。

 ただ、小学生のころの輝明選手の食は細かった。「だから(少年野球の試合で)ホームランを打ったら、回転ずしに連れて行ったんです。好物なので、たくさん食べるから」

 私が輝明選手に抱いた第一印象も「大きいなあ」だった。ドラフト翌日の指名あいさつの時に初めて間近で取材し、矢野燿大(あきひろ)監督が見上げるように話していた姿をよく覚えている。

 「食え食え食え」の精神が継承され、187センチ、94キロの体ができあがったのか、と合点がいった。

ブレークしたのは

 柔道と野球。競技は違えど、親子の通ってきた道には似通う部分がある。

 仙台育英高時代、博信さんの目立った実績は高校総体個人戦全国16強。全国区になったのは日体大時代だ。

 大学の同期には、後に1992年のバルセロナ五輪柔道71キロ級で金メダルを獲得する古賀稔彦さん(53)がいた。博信さんは主に86キロ級で10キロ以上の体重差があったが、「紙のように投げられた」。あっという間に自信を失ったという。

 ただ、古賀さんが酒に酔ったり、ときに落ち込んだりしている姿を間近で見ることで、「高校時代からスーパースターだった彼も人間なんだと感じて、俺でも五輪を目指せるのかなと思えるようになった」。

 大学2年の時、体重無差別で争われる全日本学生選手権で3位に入ってブレークし、4年時は学生日本代表にまで選ばれた。「高校まで全国的に無名だったから、『あいつ誰や』となりました」

 輝明選手も兵庫・仁川学院高時代に甲子園出場経験はなく、注目されたのは大学生になってから。「そこは輝と似ています」

狙ってこその

 卒業後は大阪産業大で指導しながら競技を続け、1991年の講道館杯日本体重別選手権86キロ級を制して日本一となった。

 全ての試合で「ここでいく!」という時に思い切って技をかけにいくことができたといい、決勝は投げ技の体落としで一本勝ちだった。この経験から得たという教訓がとても興味深い。

 「打者のフルスイングと同じように、柔道でも思い切って、目いっぱい勝負にいかないと一本は決まらない。相手に合わせにいくのではなく、柔道なら一本、野球ならホームランを目指さないと、うまくはならないと思うのです」

 2月のキャンプの時、一塁側カメラマン席から撮影していて、輝明選手のある特徴に気づかされた。

 左打者の背後にあたる位置なのに、ほぼ毎スイングごとに振り切った後の表情を撮影できた。常に目いっぱいのスイングをして顔が一塁側を向くためで、他の左打者だとこうはいかない。

 近大時代には関西学生リーグの最多本塁打記録14本を樹立した。阪神入団後も「将来的にはホームラン王をとりたい」と言い切る。

 父が柔道家として培った考え方が、息子にも受け継がれているように私には思える。

 博信さんは20代後半で競技…

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