「刺繡糸」 川上未映子さんが国際女性デーに書き下ろし

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 コロナ禍で女性の自殺率が上がっています。追い詰められる女性たちを目にして、作家の川上未映子さんが短編「刺繡(ししゅう)糸」を書き下ろしました。

「刺繡糸」

 叩(たた)かれていないのに痛い。これまで一度も叩かれたことはないのに、もうずっと、長いあいだ、雅子は痛い。外からみれば無傷にみえる。でも、もしも一枚の大きな白い布で彼女の体をくるむことができたなら、まるで汁を垂らしながら朽ちていく傷だらけの葡萄(ぶどう)の房を包んだように、広げたそこにはいくつもの、むらさき色の痕が残るだろう。

 感染症の蔓延(まんえん)で、惣菜(そうざい)屋のパートを切られた。文句は言えない。雅子だけでなく、他の誰かもそうだったから。でも夫には言えないし、言いたくない。理由はどうであれ、もっと苦しくなるのがわかっているから。

 だからいつもどおり朝九時に家を出て、夕方まで時間を潰す。

 暖かな日が続いているのが、ありがたい。ベンチに座っていられるから。喫茶店は難しい。長くいるためには飲み物を何杯か注文しなければならないし、何より、店員の視線がこわい。その点、ベンチは過ごしやすい。誰も雅子を気にしないし、持参した水筒が空になっても、誰にも文句を言われない。

 腰が痛くなったら体を伸ばして、二十分ほど歩いた先にあるユニクロに行き、店内をくまなくゆっくり歩く。そのつぎはドラッグストアをはしごする。ひとつひとつの商品と値段を頭のなかで読みあげながら、移動する。いろんな十字路で、信号の色が変わるのを何度か見る。そしてまたベンチに戻ってくる。ラップの中の、おにぎりを食べる。

 五つ年上の夫は四年前に、それまで転々としていた雇われ仕事を辞めて、居酒屋を始めてこの春に潰れた。ただでさえ客が少なく、長いあいだ赤字がつづいていた店は、感染症がだめを押してあっけなく終わり、借金だけが残った。

 でも雅子は、この感染症があってもなくても、うまくいかなくなるだろうと何となく思っていた。夫は飲食店を構えようと思える程度には人あたりが良く、調子のいい男だったけれど、どうしようもない臆病者だった。自分が何かを知らないことを指摘されると頭に血がのぼり、自分が傷ついたなら同じだけかそれ以上、誰かを傷つけなければ、立っていられないような男だった。

 雅子はなぜ、自分がこの男と…

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