畳を抱いて津波で3キロ漂流 避難所に医師はいなかった

有料記事患者を生きる

後藤一也
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 2011年3月11日。海から200メートルほどしか離れていない床屋で、宮城県南三陸町の村上佳逸(むらかみけいいつ)さん(50)は午後の営業を始めていた。地元中学校の卒業式を翌日に控え、客がやってきたそのときだった。

 「ドーン」

 立っていられないくらいの激しい揺れに襲われた。つけていたテレビは停電で消えた。南三陸では1960年のチリ地震の教訓があり、万が一のときは近くの高台の公園に行くことになっていた。

 客を帰し、保育園に通う子ども2人が心配で、同居の両親に保育園に行ってもらうよう頼んだ。

 店内は熱帯魚が泳ぐ水槽が割れただけ。「津波は来ないかな」。もし来ても、2階までつかることはないだろう。散髪道具や貴重品を2階に持ち運んだそのとき――。

 「バリバリ、バキバキ」

 隣の民家が倒れかかり、自宅の屋根ごと押しつぶされた。村上さんは身動きがとれなくなった。もがいて外を見ると、海から黒い山のような水の塊が向かってきた。

 「津波か」

 もう終わりだ、と思った。

 ところが、水が押し寄せると、それまで体を潰していた家財ごと浮いて、村上さんは水の中で自由となった。もがいて水面に顔を出した。水中はがれきだらけで体のあちこちが傷ついたようだが、痛みを感じる余裕はなかった。

激流にのみこまれそうに

 水上バイクに乗っているかのように津波の流れは速く、畳につかまり、流れに身を任せるだけ。まわりに屋根の上に乗って流されている人もいて、互いに「がんばれ」と声をかけ合った。

 真っ黒の水流に30分ぐらい流されただろうか。自宅から3キロ先の山のふもとにたどり着き、盛り土の上を走るJR気仙沼線の線路にのぼった。近くに、母(73)が使っていたマットレスがあり、家ごと流されたと初めて知った。

 ジャンパーと下着1枚に裸足。はいていたズボンは消え、刀で切りつけられたような生傷が体中にあった。頭からは血が出て、手の爪が一部はがれていた。

 救急隊員と出会い、避難所の総合体育館のベイサイドアリーナに運び込まれたころには辺りは暗く、冷え込みも厳しくなった。

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 そこに医師はいなかった…

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