「避難者なのにヴィトン?」 自主避難は正解だったのか

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聞き手・田中基之
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 放射能から子どもを守るため、福島県外に自主的に避難した多くの母親たちがいた。避難先で不安にさいなまれ、地元に残った人たちへの後ろめたさも感じた。震災当時、郡山市に住んでいた中村美紀さん(45)もその一人。葛藤の末に決めた、あの判断を振り返った。

なかむら・みき 1975年12月、福島市生まれ。大学卒業後、大手スーパーでバイヤーとして働いた。東日本大震災の後、娘3人と山形市に避難し、「山形避難者母の会」を設立。代表となり、被災者のネットワーク作りを進めた。現在は料理研究家で、宮城県内でクッキングスタジオI―e(イーエ)を開く。

 ――2011年3月11日、東京電力福島第一原発事故が発生しました。当時、夫と1~8歳の娘3人で福島県郡山市で暮らしていました。

 「最初は人ごとでした。原発が爆発したから何なの? 原発から60キロ、そんなに近かったの? 海外の人は逃げているの? 原発のことほんとに知らなかったんですよ。メルトダウン。『えっ』という感じでした」

 ――混乱の中、どのように情報を集めましたか。

 「絶対に大丈夫だと思いたかった。でも不安なんです。ネットで情報を拾い、ツイッターだと二極化されるんですよ。『福島は安全だ』という人と、『危ないから早く逃げろ』という人と。精神的に不安定な時期がありました。そのころ、避難すべきか、毎晩、主人とけんかになっていたんです。主人は新聞が大丈夫と言っているんだから、よけいなこと言うなと」

 ――当時、3人の娘さんの体調に変化があったそうですね。

 「鼻血を毎日のように出す。耳鼻科の先生からは『このぐらいの線量でそんなことはない』と言われて。科学的根拠はないですが、体調が違ったのは事実。私だけなら神経質な母親なんですけど、同じようなお母さんがいっぱいました」

 ――6月には山形市への避難を決断しました。

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