奇跡の10年でテロリスト→実業家 ひ孫が語る渋沢栄一

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聞き手・池田伸壹 聞き手・湯地正裕 聞き手 編集委員・駒野剛
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 幕末から明治、大正、昭和を駆け抜けた経済人渋沢栄一。新しい1万円札の顔に採用が決まり、大河ドラマの主人公にもなった。経済の長期停滞とコロナ禍にあえぐ日本に問いかけるものは。

渋沢栄一のひ孫・渋沢雅英さん

 渋沢栄一は、幕末から明治にかけてという、あの時代が生んだ興味深い人物です。私自身、40歳代で調べるまでは、知らないことが多かったのですが、いわばテロリストをめざしていた若者が、激動の10年間の末に実業家になったのです。

 埼玉県の農家の長男が、幕末、攘夷(じょうい)思想の影響を受けて、倒幕をめざし、高崎城の乗っ取りや横浜焼き打ちを企てます。23歳の時です。直前になって決行せず、京都に逃げる。逆に、一橋家の徳川慶喜に仕え、慶喜が将軍になったことで幕臣に。パリ万博使節団の一員として欧州に派遣される機会を得ました。

 そこで西洋の経済や行政、政治の仕組みを学び、使節団の資金を実際に公債に投資して、運用に成功する経験も積む。その間に明治維新が起きます。帰国後、新政府の役人となり、大蔵省を辞めて銀行を開業したのが33歳です。

 この期間を私は「奇跡の10年」と呼んでいます。栄一はこの国が大きく動いた歴史によって生み出され、さまざまな業績を残した存在だったのは間違いないでしょう。

 幕末から明治、大正に活躍したリーダー、財界人には、若くして暗殺された人も多かったですが、栄一は1931(昭和6)年に91歳で亡くなるまで人生を全うしました。

 お葬式では、東京・飛鳥山にあった自宅から青山葬儀所に向かう長い葬列ができました。ひ孫の私は車に乗って加わっていましたが、道の両側に、多くの人たちが集まってくださっていた。6歳だった子供心にも驚きで、深く記憶に残っています。道路を埋め尽くしていたのは、さまざまな企業やいまの一橋大学日本女子大学といった、栄一が設立に関係した学校や団体の関係者に加え、一般の方も多かったそうです。

 第一銀行のトップを43年務めた栄一ですが、恵まれない人のための養育院の運営は企業経営から引退した後も、死ぬまで55年も続けました。ビジネスだけでなく、社会福祉や国際交流の仕事にも、真剣に取り組みました。多くの人に別れを惜しんでもらったのは、自分の利益のためだけでなく、広く社会全体のことを考えて行動した結果だったのではないでしょうか。

 もっとも、公を優先させるその志に、家族は苦労をしました。第2次大戦後、渋沢家は財産税を納めるために住む家を手放しています。その財産税を導入した当時の大蔵大臣が、栄一の孫で、私の父の敬三でした。父は、自分は栄一ほどのリーダーではないという自覚がありましたが、国家が大変なとき財政を預かることになり、栄一ならどう考えただろうか、代わりにしっかり判断しなければならない、という思いが強かったと思います。(聞き手・池田伸壹)

     ◇

 1925年ロンドン生まれ。栄一は曽祖父にあたる。記念財団理事長、東京女学館理事長などを歴任。

約500社もの企業をつくった渋沢栄一。そのビジネス思想は、混迷する現代こそ学ぶ点が多くあるという声が。記事後半では、ミクシィ元社長の朝倉祐介さん、関西大客員教授で渋沢栄一の著書もある木村昌人さんが解説します。

ミクシィ元社長・朝倉祐介さん

 IT大手「ミクシィ」の社長を退任した後、経営の現場で試行錯誤した体験を自省したくて、色々な本を読んだ中の一冊が、渋沢栄一の「論語と算盤(そろばん)」でした。100年以上も昔に発行された本なのに、現代と通底するテーマを語っていることに驚かされました。

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 最も印象深いのが、事業を通…

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