スター田端義夫の足跡 奉公に出る日、抱きしめた母の涙

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編集委員・小泉信一
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 ギターを水平に高々と抱える独特のポーズ。「バタやん」という愛称で慕われた歌手・田端義夫である。ビブラートを利かせ、心の琴線に触れる歌を歌い続けてきた。トレードマークにもなった「オース!」という元気な声。多くのヒット曲を並べると、日本が激しく揺れ動いた「昭和」が浮かび上がる。ふるい朝日新聞の記事をおいながら、バタヤンの芸の足跡をたどった。

 生まれは三重県松阪市。男女10人きょうだいの9番目だ。農業の傍ら人力車を引いていた父は3歳のとき亡くなる。長兄を頼って一家は大阪へ。だがその兄も商売に失敗して蒸発してしまった。鶴橋の小学生時代は、貧しくて弁当を持っていくことができず、昼は校庭の片隅で時間をつぶしていた。3年生までしか通わなかったという。

 一家は家賃が払えず、夜逃げを十数回経験。「十三歳で名古屋に奉公に出る日、自分を抱きしめた母の目から落ちた温かい涙。『今に見ろ』と生きてきた」(1998年7月16日、大阪夕刊)。薬屋、パン屋、菓子屋、鉄工所……。仕事を転々としたが、好きな歌の練習は欠かさなかった。毎晩、自転車で名古屋郊外を流れる川まで行き、橋の下で歌い続けた。無性にギターがほしかったが、カネがない。「仕方なく、手ごろな板ぎれでギターを形どり、フレームを書き込み、弦のかわりに木綿糸を張った手製のギターをつくった。教則本と首っぴきで、指の運びを覚えた。指先に、血がにじむほど――」(76年5月29日の夕刊)

 夜の河原で鍛えたのどがモノをいう時がやってきた。38年、名古屋で開かれたのど自慢大会。千数百人の中で優勝。いがぐり頭の19歳の青年は歌手を志し、上京する。

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 貧しさのしみついた少年時代…

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