古墳の石材→城の石垣に?石室に破壊跡 地元には伝承が

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床並浩一
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 7世紀初頭に築かれ、東海地方を代表する古墳として知られる国史跡「馬越長火塚(まごしながひづか)古墳群」(愛知県豊橋市)で、石室に使われた石材が大量に運び出されていたことが市の調査でわかった。世界遺産姫路城兵庫県姫路市)を築いた池田輝政が城主を務めた吉田城に使われたとの言い伝えが地元にはあり、歴史ロマンをかき立てる。

 「何者かの手で側壁の石材が抜き取られ、石室が大きく破壊されている」

 三つの古墳からなる古墳群のうち、昨年末から発掘調査が行われてきた円墳「大塚南古墳」で、驚きの事実が明らかになった。

 横穴式石室の存在は前回2008年度の調査で副葬品が見つかるなどして把握されていた。全長約8メートルの全容解明は今回が初めてだ。

 地中深く掘り進めると、石室上部を覆う天井石や奥壁に使われたとみられる巨大な石灰岩が多数出てきたが、側壁に積み上げられていたはずの石材はほとんど見当たらなかった。重さ1~2トンとみられる天井の巨石は支えを失い、石室内に並ぶように転がっていた。

 調査にあたった市文化財センターの岩原剛所長(考古学)は「江戸時代以前に破壊されたのだろう」と推定する。「石材が見事に運び出されている。これほど立派な石室で、石材を採るために組織的に手際よく、徹底的に壊された例を見たことがない」と話す。

 「築城の名手」として名高い輝政は1600年に姫路城主に就き、大改修を手がけた。その際、姫路近隣の古墳が破壊され、石棺から運び出された石材を石垣に転用したことは広く知られている。姫路市によると、こうした「転用石」は石垣建設が盛んになった安土桃山時代からみられ、松坂城(三重県松阪市)などでも確認されている。

 輝政は姫路に移る前の1590~1600年、古墳群から10キロほど離れた吉田城主として、現存する強固な高石垣を積み上げた。石材は古墳の石室と同じ石灰岩だ。地元では古くから「吉田城の石垣に使われた」と語り継がれてきた。

 岩原さんは「伝説を裏付けするものかもしれないと推測したくなるが、時代を特定できる証拠は見つかっていない」と言葉を選ぶ。

 古墳が狙われた背景も、はっ…

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