第2回通説より大幅に少ない明智軍 信長の白帷子にかかった血

有料記事本能寺の変 「乙夜之書物」が解き明かす新戦国史

編集委員・宮代栄一

 本能寺の変に参加していた明智光秀の家臣が語ったとされる情報も盛り込まれている「乙夜之書物」には、戦国時代の貴重な情報が残されている可能性がある。その内容を検証しながら、3回にわたって、謎の多い本能寺の変の実像を探ってみる。連載の2回目。

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 天正10(1582)年6月2日、京都・本能寺に滞在中だった織田信長(1534~82)が、配下の明智光秀(1528?~82)に討ち取られた本能寺の変。その87年後に書かれた「乙夜之書物(いつやのかきもの)」には、本能寺を襲撃した際の具体的なエピソードが書かれている。専門家の意見を紹介しながら、その記述を検証してみる。

 「乙夜之書物」は、現在の石川県富山県の一部を治めていた加賀藩の兵学者だった関屋政春(せきや・まさはる)が、古老らから聞き取ったエピソードなどを江戸時代前期に書き残した自筆の3巻本。本能寺の変に関わる記述がみられる上巻は、1669年に成立したと考えられている。このほど、富山市郷土博物館主査学芸員のの萩原大輔さん(日本中世史)が読み解いて明らかにした。

 まず、「乙夜之書物」に記された本能寺の変のエピソードを紹介したい。情報源は、寺を急襲した光秀軍を率いたとされる重臣の斎藤利三(としみつ)の三男で、自らも数え16歳で事件に関わった利宗(としむね)が、おいで加賀藩士の井上清左衛門に語った内容とされる。前日の6月1日の亀山城(京都府亀岡市)での出来事と、その後、明智軍が亀山城を出発し、京都に向かうシーンは、次のように記される。

本能寺の変の詳細を記述、信長最期の様子も

 【原文】……硯箱ニ料紙ト熊野ノ牛玉ヲ出ス、各血判スミテ亀山ノ城ヲ朔日ノ暮前ニ立テ、大井ノ山ヲ打越テ夜中ニ掛桂川ニ至リ、諸軍ヲ川原ニ座備テ兵粮ツカエト云、各心得ヌ事哉、亀山ヲ出テヤウヤウ三里計来リテ何事ゾト思イナガラ竹葉ツカイケル所ニ物頭トモ乗廻シ本能寺エ取カクルゾ各其心得可仕ト云、諸軍フルイタルトナリ、扨本能寺エハ明知弥平次・斎藤内蔵人数弐千余キ指ムケ、光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ

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 【大意】(光秀は)すずり箱…

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連載本能寺の変 「乙夜之書物」が解き明かす新戦国史(全3回)

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