私におう?人との距離選べぬ苦しさ 宇佐見りんさん寄稿

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(寄稿)作家・宇佐見りんさん

 駅前のカラオケ屋が閉業した。ネオンが消え、裏通りに面して打ち付けられていた看板が撤去されている。言うまでもなく、コロナ禍の影響だ。看板がなくなってしまうと、外観は単なる小さなマンションである。看板に覆われていた部分が、風雨に晒(さら)されずにいたために生白い。

 個人経営のお店で、高校生の頃、よくここのソファに横になって眠った。試験勉強をして、小説を書いた。当時所属していた合唱部の歌を練習することもあった。

 合唱部に入っていたとはいえ、歌は全くうまくない。歌うことが好きでたまらなかったかと言われれば、そうではないかもしれない。練習に出ない日も多く、部員にも顧問の先生にも数えきれないほど迷惑をかけた。けれども、響きのなかに立ち、歌の世界を感じる時間は本当に幸福だった。好きな曲は演奏会が終わっても聴き続けた。小説を書くときのお供にしている音源も多い。カラオケ屋で曲を入れることはなく、そういう、部活で出会った好きな曲を、伴奏もないまま歌った。周囲の眼(め)は一切気にならない、自分がいることで誰にも迷惑のかからない、希少な場所だった。

 人と関わりたくなかったと言ってしまうと、なんだか人嫌いのように聞こえるが、そうではない。人を苦手になるよりさきに、自分をよく思っていなかったので、一人でいなくてはならない、人に近づいてはいけないと感じることが多かった。

 そう考えるようになった理由のひとつに「におい」があった。「自分が異臭を発しているのではないか」という不安。一時期、この不安が頭から離れなくなったことがある。ふとした瞬間に、自分がにおうのだ。入浴直後であっても、頭皮を触ると指がにおう。歯を磨いても、ものを食べるとすぐ口臭がしているのではないかと気になり、食事中水を何度も口に含み、ひそかにゆすぐ。その時期は、自分が汚物であるとの認識がかなり強くあった。それが、自分への人格否定や容姿コンプレックスとあいまった精神的なものであったのか、部屋が荒れ放題で食生活も偏っていたために、実際にひどい体臭を放っていたのか、定かでない。鼻はかなり利くが、自分の体臭は自分では気づけないというし、友人に「私、くさいかな」と聞くわけにもいかないので、不安は増すばかりだった。人と話していても「臭いと思われているかもしれない」「いまは普通に話してくれているけれど、不快にさせて、我慢させているのかもしれない」との考えがよぎってしまう。教室でひとりになる瞬間があると「においのせいでは」と思う。話すのも気が重く、人と距離をとらないと安心できなかった。

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