佐藤達弥
「戦場に送り出す気持ち。無事に帰ってきてくれと祈らずにおれなかった」
「当館では銃声が絶え間なく聞こえる危険な状況」
天安門事件発生から9日後、1989年6月13日付の外相に向けた手書きの報告書「当館が行った邦人救援活動」はそう記す。
北京の日本大使館は5日から、近辺に取り残された邦人約1500人を貸し切りバスで空港などに退避させる作業に追われていた。軍が道を封鎖する市街へバスで向かう館員を見送ったのは中島敏次郎大使。この文書の作成者だ。
事件の発端は4月。中国共産党の改革派指導者だった胡耀邦・前総書記が死去し、追悼集会を機に多くの学生らが北京の天安門広場で座り込むなどし、民主化を求める大規模な運動に発展した。党指導部はこれを「動乱」と断じ、6月3日夜から4日未明にかけ軍を投入して制圧。当局は死者を319人と発表したが、実際の犠牲者ははるかに多かったとされる。
日本政府は「誠に遺憾」(塩川正十郎官房長官)としつつ、姿勢が問われる7月中旬の主要7カ国首脳会議(G7サミット)に向け対処方針の作成を急いだ。「天安門事件」ファイルの時系列の文書から当時の様子がうかがえる。
中島大使の「意見具申」もふま…