犠牲者ゼロ、水害の町の教訓は 吉田川決壊の宮城・大郷

KHB・鈴木奏斗
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 宮城県大郷町の中粕川地区は、昨年10月の台風19号による豪雨で近くを流れる吉田川の堤防が決壊したのに、1人の死傷者も出さなかった。この理由を探ろうと、KHB東日本放送と東北大学が共同で聞き取り調査を実施。当時の住民の避難行動を検証した。

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 昨年10月12日午後2時10分。大郷町は警戒レベル3に当たる「避難準備・高齢者等避難開始」を発令し、全戸に設置した防災行政無線で避難を呼び掛けた。同時に、高台の幼稚園を避難所として開設した。

 この頃、住民たちは続々と避難所や町外の親戚の家へと向かい始めた。中粕川地区で生まれ育った農業の高橋順一さん(71)は午後3時半ごろ、隣に住む親戚と一緒に、あらかじめ避難場所に決めていた幼稚園へ車で移動した。頭にあったのは生前の父の教えだった。

 1910年の大洪水で自宅のかもい近くまで水が押し寄せたことを聞かされていた。雨が強くなると、道路が冠水して避難できなくなることも知っていた。「この地区では、水害への覚悟を常に持っていないと駄目だ」と高橋さん。

 KHBと東北大は、今年2月から6月にかけて中粕川地区の住民105世帯311人のうち53人から聞き取った。その結果、7割(37人)が避難の理由を「過去の水害を思い出したから」と回答。9割近い47人は、事前に避難場所を決めていた。

 この地区では、町の呼び掛けで2006年に防災組織を立ち上げ、災害時のマニュアルや支援が必要な世帯が一目で分かる地図を作製。毎年、避難訓練を実施してきた。効率的に回るため、避難状況を周囲に知らせる旗を玄関先に取り付けるルールも設けていた。

 この日、地区の班長や消防団員は、午後2時すぎから一軒一軒に避難を促していた。大郷町が警戒レベル4に当たる「避難勧告」を発令した午後6時40分時点で、まだ20人が地区に残っていた。雨脚は強まっており、避難の呼びかけは続いた。消防団員や班長の呼び掛けをきっかけに避難した、と答えた住民は4割以上(22人)に上った。

 近くの吉田川が氾濫(はんらん)危険水位の8・2メートルに達し、町が「避難指示」を発令したのは午後9時58分。調査では、この時点までに8割以上の43人が避難所や親戚の家への避難を終えていたことが明らかになった。

 共同調査をした東北大の佐藤翔輔・准教授(災害科学国際研究所)は「過去の経験は途切れやすいが、中粕川地区では自分の体験や家族との対話をもとに、水害がどういった現象か、シミュレーションしながら学んでいた。それが、水害への危機意識を高め、事前避難につながった」と分析した。そのうえで「消防団員らの呼び掛けが、住民を家から追い出して避難場所へ促した。災害時、訓練通りにいかない部分も、共助でカバーできるということを教えている」と話す。

 ただ、課題も残った。

 午後11時10分には警戒レベル5に当たる「大雨特別警報」が発令され、翌日午前3時50分には、24時間雨量が観測史上最大の309・5ミリを記録した。それでも5軒ほどが避難せず残っていた。要介護者がいる、移動手段がない、といった理由だった。

 吉田川の堤防が決壊したのは、雨がやんだ後の午前7時45分。この時、堤防から約150メートルの所に住む農業の熊谷泰弘さん(68)は、高校生の孫と一緒に自宅にとどまっていた。86年の「8・5豪雨」では自宅前がわずかに浸水した程度だったため、「今回も大丈夫」と思い込んでいた。

 しかし、自宅は2メートルほど浸水。2階に避難した熊谷さんらは、県の防災ヘリコプターで救助された。

 大雨特別警報が解除された明け方に、避難所から自宅へ戻った住民も5人ほどいた。

 河川氾濫に詳しい東北大の橋本雅和・助教は「山に降った雨が川に流れ決壊するまでには時間がかかる。雨がやんだ後も、氾濫のリスクを考える必要がある」と警鐘を鳴らす。(KHB・鈴木奏斗)

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