あの王妃をダチョウに…フランスが風刺画にこだわる思い

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 パリ郊外で10月半ば、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を授業で扱った中学教員が殺害されました。ムハンマドへの風刺をめぐっては、2015年にもパリで週刊新聞の記者ら12人が殺害される事件が起きています。両事件のきっかけとなった風刺画は、フランス社会においてどのようなものなのでしょうか。フランスの政教分離に詳しい東京大学の伊達聖伸准教授(宗教学)に聞くと、風刺画とその裏にある社会不安とのつながりが見えてきました。

 ――フランスで風刺画はいつごろから広がったのでしょうか。

 風刺画が盛んに描かれるようになったのは、1789年のフランス革命のころからです。王侯貴族や聖職者といった権力者を風刺し、600点ほどが現存していると言われています。絶対王制下であった出版への検閲が革命後になくなり、権力者に対して自由に風刺ができるようになったことに加え、当時は市民の識字率が低く、文字よりも絵のほうがより多くの人に伝えやすいという面もありました。市民にとっては長く苦しい抑圧をへて得た自由と平等に対して特別な思いがあり、それが風刺にも反映されていきました。

豚に描かれたルイ16世

 ――例えばどのような風刺画がありましたか。

 フランス革命で王位を追われたルイ16世はブタに、ぜいたくな暮らしで知られた王妃のマリー・アントワネットはダチョウとして描かれました。ダチョウはフランス語で「オートリュシュ」と言い、マリー・アントワネットの出身地で発音の似たオーストリアにひっかけたと考えられます。画の下には「金や銀は消化できるが、憲法はのみ込めない」などと書かれ、その華美な生活がからかわれました。

 ――その後はどのように発展していったのでしょうか。

 1830年代に風刺新聞が相次いで創刊されました。同じ時期に石版画の技術が発展したことで、市民の間に風刺が広く浸透していきました。風刺画は人物の特徴をつかみ、それを誇張して描きます。権力者への不平や不満を市民にわかりやすく伝えることができる一方で、権力者にとってはそれが市民の政治的なエネルギーにもつながり得るため、都合が悪い部分もあり、そこには一定の緊張感があります。そのため、権力者が風刺の内容を糾弾したり、新聞を廃刊にしたりすることもありました。風刺新聞「カリカチュール」の創始者フィリポンは、ルイ・フィリップ王をその容姿から洋梨として描き、罰せられました。画家のドーミエも、洋梨姿の王の絵を描いています。

 ――風刺の内容に限度はないのでしょうか。

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