「白村江の敗戦」が生んだ都市・大宰府 日本書紀と九州

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今井邦彦
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 527年に筑紫(つくし)(今の福岡県)で勃発した「磐井の乱」に勝利した大和政権は、各地に直轄地を置いて九州の支配を固め、朝鮮半島や中国との外交も掌握しました。しかしその130年後、過去最大の外交的な危機を迎えることになります。今回のテーマは「白村江(はくそんこう)の敗戦」です。

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 飛鳥時代半ばの660年。倭(わ)(日本)と同盟を結んでいた朝鮮半島西部の百済(くだら)は、唐(中国)と半島東部の新羅(しらぎ)の連合軍に攻撃され、滅亡した。女帝・斉明天皇と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)は、倭に滞在中の百済の王子を援軍とともに帰国させて同国の復興を図るが、斉明は翌年、遠征先の筑紫で急逝。派遣軍は663年、白村江(韓国・錦江の河口)で唐・新羅軍に大敗した。九州は侵攻の危機に直面した。

 当時、大和政権が博多湾周辺に置いていた「那津官家(なのつのみやけ)」は、朝鮮半島に対する外交・軍事の拠点だった。527年、筑紫で起きた「磐井の乱」に勝利した大和政権が九州各地に設けた直轄地「屯倉(みやけ)」を統括し、軍事物資を貯蔵する基地でもあったとみられる。1980~90年代、JR博多駅南の比恵・那珂遺跡の発掘調査で塀に囲まれた大型の倉庫跡が次々と見つかり、那津官家の有力候補地となった。

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 調査を担当した福岡市埋蔵文…

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