「軍隊は住民守らない」 司令官の孫が伝え続ける沖縄戦

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 犠牲者20万人以上の沖縄戦は75年前の9月7日、米軍と日本軍との降伏文書の調印によって、公式に終結しました。その沖縄戦を率いた沖縄守備軍の牛島満司令官を祖父に持つ貞満さんは四半世紀、沖縄に通い続けています。満が自決前に下した命令によって、住民の犠牲は増大しました。あの優しかったとされる祖父がなぜ。貞満さんがたどり着いた答えとは――。

住民が逃げ惑った道

 灼熱(しゃくねつ)の太陽が照りつけ、30度を超す気温に汗が噴き出る。75年前「鉄の暴風」と呼ばれる米軍の激しい艦砲射撃のなか、住民は飢えやのどの渇きに苦しみながら、道なき道を逃げ惑ったのだろうか。

 7月、私は沖縄戦を率いた旧陸軍第32軍(沖縄守備軍)司令官、牛島満中将(1887~1945)の孫貞満さん(66)と沖縄本島南部にいた。

 四半世紀前、沖縄に通い始めたばかりの貞満さんが、地図と住民の証言をてがかりに、一人で歩いた沖縄戦の南部撤退のみち。要所の一つ、南風原町(はえばるちょう)の山川橋(宇平橋)にさしかかると、貞満さんは安里要江(あさと・としえ)さん(99)の『沖縄戦 ある母の記録』を読み上げた。

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 「近くまで来ると、夜だとい…

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