元日本軍人の台湾人、抑留中の片思い 3万人の死を胸に

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編集委員・大久保真紀
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 横浜市在住の呉正男さん(93)は、日本軍人としてアジア・太平洋戦争を戦った台湾人だ。

 日本統治下の台湾で生まれた。父は親日家で、地元の役人だった。日本人小学校に通った後、1941年4月に留学生として東京都内の中学に入った。

 「(天皇陛下に仕える皇民としての)「少国民」教育を受け、僕は愛国少年になった。」

 戦況が厳しくなっていた44年春、飛行機乗りに憧れて陸軍特別幹部候補生を志願した。16歳だった。水戸にある航空通信学校に入隊。機上通信士の教育を受け、年末には茨城県内の飛行隊に配属された。

 所属したのは、大型爆撃機とグライダーで構成される部隊。「滑空歩兵」と呼ばれる兵隊約20人を乗せたグライダーを爆撃機が引航し、敵の基地近くで切り離し、着地したグライダーから歩兵が飛び出して攻撃することを目的にしていた。

 着任後すぐ、夏服に着替えさせられ、「私物や遺髪、爪を家族に送れ」と指示された。南方へ出撃する予定だった。だが、滑空歩兵を乗せて先発した船が沈没し、中止となった。

 空襲が激しくなり、45年5月に朝鮮半島北部の宣徳飛行場に移動した。夜間訓練を繰り返した。米軍が占領する沖縄への出撃計画があったが、まもなく敗戦。ソ連兵に捕らえられ、シベリア鉄道中央アジアカザフスタンの、半砂漠地帯にあるグジルオルダ収容所に連行された。

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 抑留生活は過酷だった。冬は…

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