黒パンくれたエレーナへのお返し 戦後75年の一日一善

有料記事戦後75年特集

構成・小島弘之 平賀拓史 大谷百合絵
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 コロナ禍を生きる若者たちが戦後75年の夏、戦争の証人と語りあいました。

シベリア抑留を経験した篠原吉宗さん(91)/Xジェンダーの昆鈴乃さん(21)

 まずは、就職活動を終えたばかりの茨城大4年の昆鈴乃(れいの)さん(21)が、朝鮮半島の特攻訓練基地で終戦を迎え、シベリア抑留を経験した篠原吉宗さん(91)に聞きました。

 ――昨年、水戸市語り部に登録されるまで戦争体験を語ってこられなかった。なぜですか?

 人殺しの仲間に入ってしまった。だから語る資格はないと思ってきた。でも、歴史を知らない若者が多いよね。まだ私の生があるうちにと語るようになった。

 《篠原さんは1929年、今の水戸市生まれ。8人兄弟の7番目。44年8月に15歳で海軍飛行予科練習生に入隊し、人吉海軍航空隊(熊本)へ。6カ月の訓練を受けて、45年2月に元山海軍航空隊(現北朝鮮)に派遣された。》

 近所にぺリリュー島で多くの犠牲者を出した陸軍歩兵第二連隊の兵舎があった。朝晩ラッパを聞き、「ここはお国を何百里」と歌って兵隊の後を歩いた。「日本は神の国で戦争に負けない」と先生も上級生も言ってるから、軍人になろうと思って。14、15歳の真っ白い子どもを染めるのは簡単なものです。恐ろしいね。

 人吉では、剣術などの訓練が続いた。体罰は日常茶飯事。スリッパに鋲(びょう)を打って頰をビンタ、カシの棒で尻を15回も殴打される。後にソ連の捕虜になった時は一度も殴られなかった。日本軍はひどかった。

 ――あの時代「死」は今と違ったのですか?

 戦局が悪化し、元山では乗る飛行機がなくて整備に回った。死は当たり前。悲しいとは思わず、憧れの零戦を操縦して、あの人たちの後を追うんだと思っていました。

 週3日、飛び立つ機体に、帽子を振り続けた。次第に複雑な感情がわき始めた。先輩たちは別れの杯を交わし、機体に乗り込む。口を一文字に結んで、ただ真っすぐ前を見て操縦桿(かん)を握り、両翼を左右に揺らしながら飛んでいった。

 「喜んで死ぬ」なんてあり得ないと思ったね。あの時も今も同じ。戦争になると、沈黙するしかなかっただけだ。戦争ほど惨めで不幸なことはないですよ。絶対に繰り返したらいけない。

 《45年8月23日、進駐してきたソ連の捕虜になった。》

 皮膚病にかかり隔離された後、陸軍の隊に加わり、モスクワ郊外の捕虜収容所に収容された。線路補修や木材運搬など、これでもかというほど働かされた。

 冬のある朝、隣に寝ていた年上の陸軍兵の顔が冷たくて。ツルハシも跳ね返ってくるほど土は硬く、「雪が解けたら土に埋めるからな」と言いながら遺体を白樺林(しらかばばやし)の雪に埋めました。

 毎夜、資本論やマルクス・レーニン主義などの社会主義をたたきこまれ、居眠りすれば「反動分子!」とつるし上げられた。社会に出る前に兵隊になったから、それが正しいかどうかなんて、分からなかった。

 でも忘れられない出会いもあった。冬に工場で働いた時に、同い年のエレーナが、トイレにいくふりをして監視の目を盗み、黒パンの端切れを毎日のように渡してくれました。私は片言のロシア語で、お礼くらいしか言えなかったけど、通じ合った感じがしたよね。

 《48年10月、収容所を退所。ドイツの女性将校の服を着て鉄道と船で翌11月、京都・舞鶴港に到着した。》

 帰国後、県庁や市役所、専売公社の就職面接に行っても「アカはダメ」と断られた。戦争のことをそれからは話さなかった。郵便局で定年まで勤めました。

 ――私は、自分のことを男性でも女性でもないと考える「Xジェンダー」です。就職活動をする中で、性別に男性と女性の欄しかないことに違和感を感じ、周囲からタブー視されることに戸惑っています。

 軍国教育、ソ連での社会主義教育、そして帰国後、予科練は「与太練」って言われ、「アカ」とも見られた。同調圧力や差別を経験しているから、世の中は矛盾だらけで何を信じて生きればいいかが分からないと今も思っていますよ。

 だから、色んな考えに触れて、物事を俯瞰(ふかん)することを大事にしています。新聞も3紙を半年ごとに変えて購読してる。そうしなければ自分を守れないでしょ。その上で、自分が良い、悪いと思うことを大切にすればいいです。

 「一日一善」も旨としてます。ゴミを拾うとか小さいことだけど。エレーナへのお返しなのでしょうね。

予科練とシベリア抑留

予科練は、旧海軍が熟練の航空機搭乗員を育てようと教育を始めた「海軍飛行予科練習生」とその制度の略称。10代の少年を全国から選抜し、基礎訓練をした。終戦までに約24万人が入隊、うち約1万9千人が戦死したとされる。特攻隊として出撃した人も多かった。シベリア抑留は、第2次世界大戦後、旧ソ連が旧満州などにいた日本兵らをシベリアなどの収容所に連行。厚生労働省の推計では、約57万5千人が抑留され、約5万5千人が死亡したとされる。

21歳昆さん「排他的な空気、コロナ禍の今も」

 電話でお話を伺った。戦中は軍国主義、ソ連では社会主義教育を受け、帰国して「アカ」と呼ばれて、時代の「同調性」に苦しんだ篠原さんの話は、心にぐっと迫ってきた。

 男と女が一直線上にあって、ちょうど真ん中くらいにいると思っている。Xジェンダーだ。日常生活で疑問を抱くことが多い。例えば就活では「女性はスカート」と助言されたこと。

 篠原さんは、色んな立場を知った上で選択すればいいとおっしゃった。話すことで理解が得られるとも。難しいけど、心に残った。

 コロナ禍の今、東京から帰省した人を中傷するビラが置かれるなど、戦争の原因となる芽になりかねない排他的な空気を感じる。情報過多の時代にあって、判断が難しいが、自分の目と耳で確かめることが重要だと思った。

 出身は岩手県花巻市で、小学校卒業の直前に、東日本大震災が起こり、親族が津波で亡くなった。あの時代の「死」とはどんなものだったのか篠原さんは「時代は違えど、人の死に涙が出るのは変わらない」と教えてくれた。ずっと忘れない言葉だ。

旧満州で夫を亡くした箱石シツイさん(103)/一人暮らしの大学生今井一樹さん(21)

 コロナ禍の一人暮らしで孤独と不安に向き合う宇都宮大3年の今井一樹さん(21)が、旧満州(中国東北部)で夫の二郎さん(当時31)を亡くした箱石シツイさん(103)に話を聞きました。

 ――僕は一人暮らし。帰省もできなくて、家族や友だちに3カ月間も会ってない。将来の進路も定まらず、孤独感と虚脱感と向き合う毎日なんです。

 私も戦争のせいで、ずっと孤独だったのよ。75年前の東京、空から七夕の短冊みたいに焼夷(しょうい)弾が降ってきた。娘は栃木の実家に預け、ひとりぼっちで、息子のおむつを暗闇の中で手探りで替えてた。

 《箱石さんは栃木県の旧大内村(現那珂川町)生まれ。14歳で上京して理容師になった。22歳で二郎さんと結婚。夫婦で新宿に店を構えた。1944年7月、二郎さんが出征した。》

 二郎さんが出征して間もなく、一通のはがきが届いたの。「新宿 12時30分通過」って書いてあった。差出人は不明。でも筆跡は二郎さんのものでした。

 その数日前に、千葉の陸軍部隊で面会した。のどが渇いているだろうと思って農家を6軒まわってやっと手に入れたトマトを差し入れたら、二郎さんはそれをほおばって「緊張が解けた。ありがとう。子どもたちに会いたい」って。顔をしわくちゃにしながら言ったのよね。

 はがきは、戦地に赴く前に一目子どもたちの顔を見たい一心で二郎さんが誰かに託したんだと思います。

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 次第に便りも途絶えて。終戦…

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