75年前の8月15日を境に変わったもの、そして変わらなかったもの――。戦中戦後を生き抜いた女性は、時代に翻弄(ほんろう)され、葛藤しながらも、自分の道を切りひらいてきた。
1939(昭和14)年3月、平賀圭子さん(81)は盛岡市で生を受けた。「なんだ女か」。産婆から元気な女の子だと聞くと、父親はそうつぶやき、顔も見に来なかった。幼いころ母親に何度も聞かされた。兵隊となる男児の誕生が喜ばれた時代。父は優しかったが、その言葉は後年もとげのように平賀さんの心に刺さっていた。
45年3月10日午前2時、B29爆撃機が盛岡駅周辺に焼夷(しょうい)弾を落とした。自宅は駅から1キロほど。防空壕(ごう)に避難した。「シュルシュルシュル」と弾が落ちてくる音を聞き、体が強張(こわば)った。
8月10日午前11時、盛岡駅周辺は2度目の空襲を受けた。艦載機による銃爆撃で駅の施設やガスタンクが狙われた。近くで被害はなかったが、「次はこっちまで来るんじゃないか」と両親が心配し、母子だけで隣町に疎開した。
戦時中はひもじかった。道ばたに生えたヨモギやハコベラを食べ、腹を満たした。父親は県職員として食糧統制を担当していたため、闇米を買うことはできない。両親2人と子ども5人の7人家族。「配給だけで間に合うはずがないと思ったんでしょうね。隣組がうちを見張っていました」。45年5月に長男が盲腸で亡くなったときには父が「牛乳1本も飲ませられなかった」と声をあげて泣いた。後にも先にもそんな父の姿を見たことはない。
終戦後、父の待つ盛岡に戻った。戦争が終わっても食料は手に入りにくい一方、国民学校に通えるのがうれしかった。文房具は古く、教科書だけは製本され、きれいだった。なのに、まずさせられたのは教科書を黒く塗ること。「ヘイタイサン ススメ ススメ」。軍隊や植民地に関する部分を先生の指示で塗りつぶしていった。「天皇陛下にいただいたものだから汚してはいけないと言っていた。変だ」。これまでと正反対のことを言う大人たち。「自分で考える癖がついた」と振り返る。
変わらなかったこともある…
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