「味方を撃っても構わん」のどから鮮血、叫んだ「撃て」

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川畑博信上等兵 ノモンハン従軍記3

 ソ連軍の攻撃が続く1939年8月28日、ハルハ河東岸の戦闘区域で持ちこたえていたのは、山県武光大佐率いる64連隊の主力と、十数キロ北側の「ろ号陣地」にいた川畑らの分隊が所属する大隊だけだった。

 8月28日早朝、いよいよ俺たちにとどめを刺す砲撃が始まった。大隊の軍医が数えていて、5分間に400発だったという。食い物も尽きかけていた。いよいよ最期だ。せめて華々しく死にたいと思った。

プレミアムA「ノモンハン 大戦の起点と終止符」

日本が初めて近代戦に直面したとされるノモンハン事件。このシリーズは現地調査や最新の知見も交え、当時の日本が直面した戦争の諸相を浮き彫りにします。全3章です。

血戦

 俺は分隊長として他の4人を集めた。「死ぬ時はみな一緒だぞ。一緒に突撃して死のう。みな笑って死ねよ」。生きて帰れるという望みはなかった。そうすると人間は案外落ち着いてしまうものだ。ただ、このまま誰にも知られずに死ぬことは、心残りで死にきれない気がした。俺は便箋(びんせん)を四つ折りにしてポケットに入れていたのを取り出し、遺書を書き始めた。28日の昼ごろから29日にかけ、戦闘の途絶えた瞬間に書きつけた。

 「いよいよ最後です。これから決死の突撃をします。最後まで頑張ります。お父さん、お母さん。元気でいつまでも幸福にお暮らし下さい。では博信は先にゆきます。さようなら」

 「良子さん(後年の妻)。いよいよ最後だ。死ぬまで頑張る。後は死ぬまで強い雄々しい男でありたいのだ。良子さん、いろいろ有難(ありがと)うございました。元気で、いつまでも幸福に暮らして下さい」

 後で読み返すと面はゆいが、「天皇陛下万歳」だけでは死にきれなかった。

敵はここへ突っ込んでくるだろう。その裏をかいて30メートル離れた場所に伏せ、横から一斉射撃をする作戦を立てた。俺が命じるまで一発も撃ってはならんと厳命した。

 火炎瓶も携帯地雷もなく、あるのは銃剣と2個の手榴(しゅりゅう)弾だけだった。戦車が来たら飛び乗って手榴弾を中へたたき込んでやろう。戦車の装甲の上では底に鉄鋲(びょう)が打ち込んである軍靴は滑ると思い、俺は裸足になった。

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 正面の稜線の真下から声が聞…

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