長崎原爆ホーム、設立50年に 入所者の記憶継承に奮闘

有料記事戦後75年特集

榎本瑞希
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 原爆で被爆し、身よりをなくしたお年寄りのために、シスターが長崎市に建てた養護施設「恵の丘長崎原爆ホーム」が今年、設立50年を迎えた。入所者の記憶を後世に残そうと、若い職員も奮闘する。戦後75年という節目の今年、感染症対策で外部との接触が制限されるなか、動画を配信する試みも始めた。

 ホームは1970年4月、長崎市郊外にある丘の中腹に建てられた。設立者は被爆時、女学校の校長を務めていたシスター・江角ヤスさん(1899~1980)。動員学徒として工場に送り出した教え子が犠牲になったことを悔いた。「この子らに代わって被爆者のお世話をしなければ」。子どもを亡くした「原爆孤老」を受け入れた。

 設立初期は病気や障害で一人暮らしが難しい30代、40代もいた。今は、介護が必要な被爆者を「本館」と「別館」で受け入れている。入所者は現在約330人。平均年齢はこの20年あまりで10歳上がった。

 江角さんが亡くなった翌81年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がホームを訪れ、入所者に「皆さんは生きた平和アピールです」と語りかけた。本館と別館の職員たちは、それぞれに入所者の被爆体験を記録しはじめた。

 本館は82年から、別館では95年から証言集を刊行。95年の証言集では、協力した100人余のうち7割が被爆当時30代以上だった。37歳で夫と一人娘を失った女性は娘の名を挙げ、助産師として生きた戦後をこう回想した。

 小さな生命を取り上げる度、淳子の事を思い出し、『ああ、今日も平和で良かった』と思い、涙が溢(あふ)れてくるのです

 別館は今夏、10年ぶりに5冊目の証言集を出した。5年ごとに出してきたが、2015年は数が足りず、完成できなかった。今年は15年分とあわせ98人分を紹介。うち少なくとも35人がすでに世を去った。

 初めて聞き取りに加わった職員の一人、原紗希さん(32)は祖母が被爆者だ。「断片的でも、あの時の光景を伝えてくれる入所者の思いに応えたい」。当時18歳だった女性の証言を、昨年まとめた。

 材木を積んでその上に死体がゴロゴロといっぱい並んで、焼いていたのを克明に覚えています

 見慣れた長崎駅近くの商店街が焼き場になっていたと語ってくれた女性は、その後体調を崩し、今は同じように話すことができない。「しっかりしていらっしゃるうちに聞けて、残せてよかった」と話す。

 証言をもとに劇を作り、平和学習で訪れる修学旅行生に披露したり、頻繁に来る学校の学生と一緒に演じたりしていた。しかし、節目の今年は新型コロナウイルスの影響で学生が来られなくなり、劇や被爆証言を録画し、動画サイトに投稿。6日には、秋に100歳を迎える平野ミサヲさんが語る様子を録画した。

 発案した一人、小柳雅史さん(40)は「(入所者は)伝えたいという気持ちが、どこかで生きる力になっていると思う」と話す。

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 五島列島出身で、原爆にあま…

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