コロナで「鎖国」の今、梅棹忠夫「北海道独立論」を読む

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戸田拓
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 新型コロナウイルスの流行は、本州と北海道の距離を大きく広げた。人々の往来はめっきり減り、札幌・大通公園の観光客はまばらだ。確かに、独立した「島」である北海道は、日本国内のほかの地域との切断も容易だ。北海道外と道内を気兼ねなく行き来できた安寧な日々は、いつ戻ってくるのだろうか。

 そんな思いにとらわれているうち、60年前に書かれたひとつの論文を思い出した。1960年安保で世情が大きく揺れる中、「日本の新世界、北海道をして、新世界の道をあゆましめよ。北海道の政治的自立をかんがえるべき時期がきているのではないか」と挑発的な提言を掲げた「北海道独立論」だ。

 筆者は国立民族学博物館大阪府吹田市)初代館長を務め、ロングセラー「知的生産の技術」(岩波新書)など数多くの著作で知られる戦後論壇の巨人・故梅棹忠夫氏。梅棹氏はなぜ「北海道独立論」を唱えたのか。彼の生誕100年・没後10年を迎えた今年、コロナ禍のもとで「独立論」はどう読まれるべきか――。戦後の言論人を研究する津田塾大学の葛西弘隆教授(政治学、思想史)に聞いた。(文中敬称略)

「文明の生態史観」で北海道捉えた独自視点

 ――梅棹忠夫の「北海道独立論」にはどのような背景があったのでしょうか。

 「梅棹は京都帝国大学(現京大)理学部出身の文化人類学・民族学者で、もともとは動物生態学の研究をしていました。戦時期日本の帝国支配のもとで学術調査チームの一員としてモンゴルや中国など各地を探検し、その流れで樺太(現サハリン)にも行きました。戦後もアフガニスタンパキスタン、タイなどアジア各地のフィールドワークに携わっていました」

 「その彼が1950年代後半以降、日本社会に目を向けるようになりました。『北海道独立論』は月刊誌・中央公論での『日本探検』という連載の一編として書かれたものです。発想の背後には、彼が提唱した、世界史を独自の枠組みで説明する『文明の生態史観』という仮説がありました。その文脈で彼は北海道に注目しました」

 「『文明の生態史観』のユニークな点は、動植物の生態分析の概念と方法を歴史文化研究に導入したところでした。ユーラシア大陸の両端に位置する西欧数カ国と日本を『高度に発達した文明国家』の第1地域とし、中国・ロシア・イスラム諸国などそれ以外を第2地域と規定しました。気候に恵まれ環境が安定していた第1地域の社会は、それぞれ封建制から革命を経てブルジョアが支配する資本主義体制へと遷移したのに対し、乾燥地帯などで破壊と征服の歴史を繰り返した第2地域では専制君主制や植民地体制を経て独裁者体制が形成された、とする史観です」

 「ヨーロッパとアジアの対比で考える歴史観や、(戦後論壇で主流となっていた)マルクス主義の唯物史観に対抗する歴史解釈の枠組みとして、広く反響を巻き起こしました」

 「第2次世界大戦後の日本の…

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