第3回ついに読んだ日記、恐れていた異変が 被爆した夫の苦悩

有料記事戦後75年 被爆者は託す

東郷隆
【動画】夫との思い出を振り返る被爆者の高橋幸子さん=広島ホームテレビ共同取材
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 その日記は、妻となる女性と出会ったお見合いの日から始まっていた。

 「期待と不安となんとなくこそばゆさで家を出た。(中略)和服姿のお嬢さん。この人ならと思う。やさしい物腰、はっきりした話しぶり。ますます気に入った」(28歳)

 8カ月後、結婚。結婚記念日には毎年外食し、感謝の言葉をつづった。「最良の妻に恵まれて幸せ者だ」(44歳)

 広島市安佐北区にマイホームを構え、両親と同居。「夢にみていたことが叶(かな)えられた。親孝行もできてうれしい」(45歳)。「積極的な人間になり、発言も多くして、責を果たさなければ」(51歳)。勤務先で課長に昇進すれば、正月早々決意を記した。

 どこにでもいるような会社員が、何げない日常をつづった日記。しかし、あの日から恐れ続けてきた「兆候」が56歳の夏に記されていた。

 「股関節が神経痛のように痛い。変な持病にとりつかれたものである」

 痛みで寝られない日が続く。複数の病院にかかるも原因は不明。痛み止めや赤外線照射も試してみたが、効かなかった。

 高橋茂さんが骨のがんである軟骨肉腫と知ったのは約1年後。広島で被爆してから、45年がたっていた。(東郷隆)

「本音、知るの怖かった」

 大きさは様々。種類もバラバラ。40冊にのぼる高橋茂さんの日記は、机の引き出しや周囲の箱に几帳面(きちょうめん)に納められていた。

 お見合いから死の2週間前まで日記を書き続けた茂さん。その存在は妻の幸子(さちこ)さん(84)も知っていた。だが茂さんが2013年に亡くなっても、開くのをためらった。

 「弱音を言わない人でしたから。本音をね、知るのが怖かったんです」

時限爆弾」いつ作動

 1945年8月6日。

 旧広島一中(現広島国泰寺高校)の教室にいた当時12歳の茂さんは、爆風で倒壊した校舎の下敷きになり、大けがを負った。爆心地から約850メートル。同校によると、教職員15人、生徒366人が犠牲となった。

「身をもって体験するまで核拡散は進んで行く」。夫の日記の一節に刻まれた言葉に、幸子さんが思いを語ります。

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 茂さんも数日後、髪の毛を引…

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