生き別れ70年、近くて遠い祖国 朝鮮戦争の兵士はいま

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武田肇
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 同じ民族同士で戦火を交えた朝鮮戦争が勃発して25日で70年。北朝鮮が韓国との融和を象徴する南北共同連絡事務所を爆破し、緊張が再び高まる中、戦場に立った人たちは今、何を思うのか。関西で暮らす2人の韓国軍元兵士に聞いた。

家族の再会めざし参戦したが…

 何千人もの避難民を乗せた戦車揚陸艦(LST)は大きく揺れながら漆黒の海を南に進んだ。船内は酸欠状態となり、凍えながら零下の甲板に立ち続けた。

 1950年12月、董熙豹(トンヒピョ)さん(91)=兵庫県西宮市=は北朝鮮東海岸の興南(フンナム)から韓国南部の巨済島(コジェド)へと、米軍とともに逃れた。

 生まれ育った咸鏡南道(ハムギョンナムド)の町は、日本が敗戦した45年8月にソ連軍が進駐し、48年9月に北朝鮮が国家を樹立。共産主義に反発した父は政治犯として収容所に送られ、董さんは「反動分子の家族」として迫害を受けた。戦争が始まって約4カ月後、故郷を一時、韓国軍や米軍を主体とする国連軍が支配し、脱出を決めた。祖父母や幼い妹弟は危険だからととどまった。

 「もう一度、北朝鮮軍と背後の中国軍を押し返せば、家族と再会できる」

 そう考えて韓国軍に志願し、戦闘に参加。「まともに軍靴を脱いで寝たことがない」過酷な日々を送ったが、戦況は膠着(こうちゃく)状態となり、53年7月、南北が分断したまま休戦した。董さんは約1千万人いるといわれる、南北で生き別れる離散家族の一人となった。

 「全土が焦土となり、これからどう生きていくか目の前が真っ暗になった」

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 戦場では、参戦国ではない日…

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