香港映画、消えた輝き なぜジャッキーは「親中」なのか

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半田尚子
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 中国の国会に相当する全国人民代表大会全人代)常務委員会が、香港の反体制的な言動を取り締まるための「香港国家安全維持法案」の概要を公表しました。早ければ今月末にも成立の可能性があります。

 5月末、この法案に対する支持を表明するある文書が発表されました。文書には香港の文化・芸能関係者約2千人が名を連ねています。その中には、香港出身で世界的なアクション俳優のジャッキー・チェンさんの名前も。香港の言論や表現の自由の脅威ともなりうるこの法案に、なぜ多くの芸能関係者が賛成するのでしょうか。アジア映画研究者の松岡環さんに背景を解説していただきました。

自由な映画作りを求めて

 香港は1840年に始まったアヘン戦争後、中国から割譲され、イギリス領となりました。香港映画界のルーツは日中戦争以前の時代にさかのぼります。当時、中国では上海を拠点に多くの映画が作られていました。しかしその後、日本の支配下で規制を受けながらの映画作りを余儀なくされた映画関係者は、自由な製作ができる香港へ逃れました。1949年、中華人民共和国が誕生すると、今度は中国共産党による検閲などの支配を恐れた映画関係者が再び香港へ流出しました。

アチョー! あの大スターの誕生

 50年代から60年代にかけて、香港映画界は大きく発展します。ショウ・ブラザーズとキャセイという二大映画会社が、香港や台湾、その他の華人社会をマーケットに急成長しました。50年代半ばから60年代半ばの製作本数は毎年200本を超えました。また、70年代になると、当時はまだ無名だったブルース・リーを主演に据えた「ドラゴン危機一発」(71年)に始まり、中国拳法による格闘で次々と敵を倒していくカンフー映画が一大ブームとなりました。「Don’t think.Feel!(考えるな。感じろ!)」の名ぜりふで知られる「燃えよドラゴン」(73年)は、世界各国で大ヒット。松岡さんは、「ブルース・リーが『香港映画=カンフーアクション映画』という看板を作り、香港映画の存在を一気にグローバル化しました」と話します。日本でも「アチョー!」と声を上げ、ヌンチャクを振り回す少年たちが続出しました。

中国に握られた「キャスティング」

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 ブルース・リーが「燃えよド…

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