法を軽んじる首相と取り巻きたち 寓話の先にある結末 

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 さる国のお伽話(とぎばなし)である。

 詐欺師Aが、その国の政治を取り仕切る最高責任者を名乗るXに不埒(ふらち)な知恵を吹き込んだ。「この国の法ではできないことになっていることも、法を変更することなく、できるようにしてみせます」

 それを聞いて、Xは喜んだ。それが本当なら、この国の政治は自分の思いのままになると考えたからである。だが、そんな夢のようなことが本当に可能なのか、自分では判断がつかなかったXは、側近のBに、そんなことが本当にできるのかと尋ねてみた。Bは、そんな夢のようなことができるのか、本当はわからなかったが、できないと言えばXの機嫌を損ねると思い、よく考えもせず、「できますとも」と答えた。

 それを聞いて、Xは喜んだ。だが、実は小心なXは、もっと確かな保証がほしいと考えた。そこで今度は、Xの「配下」の者ではあるが、この国の法をつかさどる機関の責任者であるCに、保証はできるかと尋ねてみた。Cは、そんなことができるはずはないと考えたが、保証をしなければXの機嫌を損ねると思い、Bと全く同じように答えた。「できますとも」

 こうしてXは、法が妨げとなって自分の思い通りにならないことがあると、Aの甘言に従い、また、Bに背中を押されて、理の通らない法解釈をひねり出しては、その法解釈にCのお墨付きを得て、難局をしのいできた。

1月まで朝日新聞《憲法季評》の筆者だった憲法学者の蟻川恒正さん。集団的自衛権の行使、検察官の定年延長など現政権の判断は、憲法に照らしてどんな意味があったのか。寄稿で考えます。

 Xらのしていることはおかしいのではないかといぶかる者がいなかったわけではない。けれども、それらの人々の多くは、繰り返される同種の事態に感覚を鈍麻させられ、口をつぐんでいた。

 そうした時代が長く続いていたある時、「空気」を読まない一人の馬鹿者が人々の前に進み出て、満場に轟(とどろ)く声で言い放った。「法ができないと言っていることを、法を変えもしないでできることにするなんて、いかさまじゃないか」

 アンデルセンの童話「はだかの王様」は、美しい布を織っていると偽って、空(から)の機織(はたお)り機に向かっていた詐欺師の言葉を、大臣も、側近も、噓(うそ)だと言えなかったために、王が市中を何も身に着けずに行進する羽目になった物語である。沿道の子どもが「王様は何も着ていない」と言ったのをきっかけに、ようやく王は、わが身に起こったことの意味を理解する。

 さる国のお伽話は、この「はだかの王様」によく似ている。だが、二つの物語には重要な違いがある。それは、「はだかの王様」の哀れな王と違い、このお伽話のXは、Aとぐるだったという点である。

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 「王様は何も着ていない」と…

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