証言でたどる被告の半生 やまゆり園事件、死刑の判決

有料記事やまゆり園事件

太田泉生 小寺陽一郎 林知聡 山下寛久 神宮司実玲 土屋香乃子 岩本修弥 林瞬
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 相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者ら45人が殺傷された事件発生から3年半。植松聖(さとし)被告(30)に対する横浜地裁の裁判員裁判で16日午後、死刑判決が言い渡された。

 不当な差別意識の起源が裁判で十分に解明されたとは言えない。だが多数の元同僚や友人の証言が朗読され、知られていなかった様々な事実が明るみに出た。裁判での証言や被告自身の発言と、これまでの取材を総合し、被告の半生をたどる。

教師をめざした幼少期

 植松被告は、神奈川県の北端に近い、相模原市緑区の千木良地区で育った。

 相模川沿いの山あいにある緑豊かな集落だ。その中心部には、1964年に開設された障害者施設「津久井やまゆり園」がある。

 やまゆり園から約1キロ。細い道の行き止まり近くにある、一軒家が被告の家だ。

 小学校教員の父親と漫画家の母親と、3人家族だった。

 幼少期に、発育や発達の遅れを指摘されたことはない。小学校の頃の人物評は「明るく人懐こくて、目立ちたがり」。忘れ物が多くこだわりの強さがあったというが、大きな問題となることはなかった。

 成績は「中の下」。両親と穏やかに暮らし、飼っていたペットをかわいがった。

 地区の小学校に通った。1学年30人ほどの小さな学校。「小学校の先生は良い人が多い気がする」。記者との面会でそう語った。父親の影響もあり、自分も小学校の先生になりたいと思った。

 同級生と1学年下に1人ずつ、障害児がいた。入学当初は障害児も同じクラスで過ごし、やがて別クラスになったが、その後もよく顔を合わせた。

 「身近に障害者がいて当たり前の環境だった」

 「被告から障害児に否定的な言葉を聞いたことはない」

 法廷で読み上げられた供述調書で、同級生らはこう証言している。

 だが、当時から障害者への偏見を持っていたことをうかがわせる事実もある。

 第11回公判。遺族の代理人弁護士に「小学校のとき、『障害者はいらない』という作文を書きましたね」と問われ、被告は事実だと認めた。当時は低学年。いつもはコメントを書き込む教諭が、この時は何も書いてくれなかった。

 4~5年生のころには、障害児の送り迎えのため、学校に来る母親の姿を見て「親が疲れ切っていて大変だ」と思っていた。

 地域の公立中学校に進んだ。バスケットボール部に所属。飲酒や喫煙、万引きに加わり、不良少年たちとの交流もあった。とはいえ、不良仲間の間で比べると真面目なほうだった。

 学習塾でガラスを割ったり、親や教師に激しく反抗して時に物を壊したりした時期もあったという。

 だが、両親は「思春期によくあること」と受け止めた。やがて、暴れることはなくなっていった。

 幼少期の被告を、精神鑑定医は「一般的にいることが想定される人物像」と位置づけた。少々の問題行動があったとしても、そのことを含め、ありふれた平穏な家庭で不自由なく育った平凡な少年だった。

高校時代の交際相手「被告、連絡マメだった」

 被告は、東京都八王子市にある私立高校の調理科に進学した。

 「おしゃれで面白そうだから」というのが、調理科を選んだ理由だった。

 成績は小学生の頃と変わらず、「中の下」ぐらい。授業では居眠りしていることが多かった。

 2年生の夏にはバスケットボールの部活で部員を殴り、停学処分を受けた。

 高校時代の被告の人物像については、法廷で読み上げられた、当時の交際相手の女性の証言が詳しい。

 2人は調理科の同級生。高校1年の8月に被告が交際を申し込み、2年の秋か冬まで付き合った。

 被告は「クラスでリーダー的存在」だったと女性は言う。ダンスの練習で面倒がる生徒らに大声で「やるぞー」と呼びかけ、やる気を引き出した。

 怒りっぽい面もあった。ベルトの色を教諭に注意されるなど気に入らないことがあると、教卓を投げたり、ゴミ箱を蹴ってひび割れさせたり、黒板消しを投げつけたりした。

 1年生の時には、こうして暴れたことが10回ほどあったという。だが3年生になると暴れることもなくなった。女性はそこに、被告の精神的成長を感じた。

 2年生の途中で別れたものの、女性にとって、被告との交際はよい記憶として残っていたようだ。

 「交際中の被告は優しく連絡はマメだった」

 女性はそう振り返る。

 記念日には手紙を書き、指輪を贈った。仲たがいすると花束を持って現れ、女性を喜ばせた。

 週末にはお互いの実家を行き来した。

 女性が初めて被告の家を訪ねたときのことだ。被告の母親と顔を合わせると、母親は「かわいい子ね。聖、よかったじゃない」と言った。父親は物静かで、ある日は女性にパスタを作ってくれた。

 被告は女性とどこに行ったかも両親に話しているようで、家族の仲は良さそうに見えたという。

 女性は、自分の母親にも被告を紹介していた。女性の母親は被告について、「ハキハキあいさつができる明るいよい子」という印象を持った。

 被告は中学・高校時代に、この女性を含め複数の女性と交際した。

 「情感のこもった付き合いがあり、孤立していなかった」

 精神鑑定医はこの頃の被告について、こう分析した。

教育実習はB評価 学童でバイトも

 被告は小学校教諭を目指し、AO入試で帝京大文学部教育学科に進んだ。キャンパスは東京都八王子市にあった。

 当初はまじめに講義に出席し単位を取った。

 教職の勉強になるからと、学童保育でアルバイトも始めた。

 学童に来る子どもたちのなかに、他の子に鉛筆を刺したり、家に石を投げたりしてしまう子がいた。

 「良い子たちを泣かしてしまう。この子はいないほうがみんな楽しいんじゃないか」

 そんなことを思ったのだと、記者との面会で語っている。

 教育実習で忙しくなるため、学童のバイトは辞めた。

 4年生だった2011年5~6月、小学校で約1カ月の教育実習をした。障害者施設での実習もあった。

 実習の記録には、おおむね肯定的な評価が並ぶ。

 「朝、玄関に立って気持ちの良いあいさつで生徒を迎え、やる気を感じた」

 「どんな人とも明るく接し、積極的に取り組む」

 「子どもと過ごす時間を大事にし、積極性がある」

 「子どもの言動に敏感、児童の指導に関心が高い」

 「教材研究の仕方、指導の作り方など、見えてきたことが多かったと思う。さらに継続して努力を続けることを期待する」

 実習の総合評価は、100点満点で70~79点に該当する、「B」だった。

 学業の傍らで、フットサルのサークルに入った。

 明るい性格で、サークルの人気者。誰とでも分け隔て無く付き合い、人の輪に入れずにいる後輩に助け舟を出す優しさもあった。

 仲間同士で入った居酒屋でお年寄りに話しかけられ、他の仲間たちは相手にしなかったが、被告は熱心に話を聞いた。学部や男女を問わず友人がたくさんいて、後輩に慕われた。

 大学時代は、障害に関係する話題はほとんどない。

 友人との雑談で「自分の子どもが障害者ならどうするか」という話題になり、被告が「俺は障害者は無理だな。俺が親なら育てられない」と言った、というエピソードが紹介された程度だ。

 明るくて人付き合いがよく、教師という目標に向けて着実に進む若者という人物像が浮かぶ。

 だが大学2年生の頃から、人物像に変化も見え始めていた。

「彫り師になりたい」 大学時代の異変

 明るく社交的でまじめな若者――。被告の人物像に変化が見えたのは、大学に入ってからのことだ。

 「高校時代は真面目でおとなしい印象でしたが、20歳ごろにははっちゃけた感じになっていた。入れ墨をいれ、『彫り師になりたい』と言っていたようだ」

 「大学に入ると髪を茶色に染めた。服が派手になり、ちゃらくなってはじけていました。入れ墨をいれ、危険ドラッグも吸い始めた」

 公判で朗読された調書で、幼少期からの同級生らが被告の変化を証言した。

 精神鑑定医の証言では、被告は入学当初はさぼらずに単位を取った。だが、次第に、出会い系サイトを使って女性と会い、危険ドラッグやギャンブルに手を出すようになった。

 大学でスノーボードサークルに所属し、フットサルサークルの被告とイベントで親しくなったという男性は、こう証言した。

 「被告は明るく面白く、みんなと騒ぐのが好きな性格。大学2年の夏ごろから頻繁に飲みに行ったりマージャンをしたりし、冬になると危険ドラッグを使うようになった。気分がハイになって陽気になる程度で、異常な行動は無かった」

 大学2年の終わりごろには入れ墨をいれた。

 大学4年になり、教育実習が始まった。だが、被告は実習を終えてすぐ、教師になるのはあきらめた。

 「深く考えていなかった。甘い考え方で小学校なら教えられるかなって。理解していないとやっぱり教えるのは難しいなと思った」

 被告は記者との面会でこう語った。

 外見が派手になり、危険ドラッグを吸う頻度は増えていった。高校時代からの友人に被告は「ほぼ毎日吸っている。吸い過ぎて、効いている時と効いていない時の境目がわからなくなってきた」と言った。

 この頃の被告の人柄を、大学の友人は「他人を見下すだけでなく、格上の相手は敬い影響を受けていた」などと指摘したという。

 2012年3月に大学を卒業。東京都教育委員会から小学校教諭1種の免許を授与された。

 だが、教職への就職活動はしていなかった。就職先に選んだのは、自動販売機に飲料を運んで補充する運送会社。中学時代の友人が何人も運送の仕事をしており、話を聞くうちに「面白そう」と思ったから選んだのだと、記者との面会で語った。

「へえ、俺もやってみようかな」 やまゆり園に転職

 被告は2012年3月に大学を卒業し、運送会社に就職した。

 だが、入社してしばらくすると、友人に「夜遅くまで仕事があり、体力的にきつい。辞めようかな」とこぼすようになった。

 津久井やまゆり園で働く幼なじみの男性と再会したのは、その夏のことだ。

 被告と男性は、幼稚園、中学校と高校が同じ。深い付き合いではなかったが、その後も年に1、2回、同窓会などで顔を合わせた。

 12年夏、友人との飲み会で被告と同席した。

 飲み会でやまゆり園が話題にのぼった。

 小学校の社会科見学で園に行ったり、運動会に利用者を招待したりと、園は地域に根付いていた。

 男性は高校時代に園でアルバイトをした。職員も利用者も笑顔で、雰囲気がよい。ここで働きたいと思い、大学を経て12年4月に働き始めたばかりだった。

 「利用者の人と一緒に過ごすのは楽しい。生活しているとかわいく思うよ」

 こう話すと、被告は「へえ、俺もやってみようかな」と興味を示した。障害者への否定的な言葉はなく、純粋に興味を持ってくれたのだと男性は感じた。

ここから続き

 被告の動きは速かった…

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