3歳の妹は炎に包まれた 記憶刻んだ空襲の絵、残す試み

有料記事空襲1945

武田肇
[PR]

 大阪大空襲から13日で75年。「恐怖の火の豪雨」と呼ばれた無差別爆撃の実像を語れる人が少なくなる中、大阪国際平和センター(ピースおおさか)は、被災者が目に焼き付いた光景を描いた「体験画」のデータベース化を進めている。(武田肇)

大阪大空襲

米軍による大阪への空襲は1944年12月~45年8月14日まで約50回に及んだ。100機以上のB29による大空襲は計8回。中でも、45年3月13日深夜から14日未明にかけての空襲は「第1次大阪大空襲」と呼ばれ、274機から計1733トンの焼夷弾が投下され、大阪市中心部約21平方キロの約13万6千戸が焼けた。約4千人の死者が出たとされ、大阪では最大の空襲被害となった。

 炎に包まれた御堂筋で、逃げ場を失った人たち。先を争うように道頓堀川に飛び込み、命を落とす人々――。ピースおおさかは、約310枚の体験画の原画を所蔵する。

 約10万人が犠牲になった東京大空襲の3日後。米軍は化学物質を混ぜたゲル状のガソリンを入れ、極めて高温で燃焼する油脂(ナパーム)焼夷(しょうい)弾を使った。ナパーム弾はベトナム戦争でも多用され、現在では民間人や人口密集地域に向けた使用が条約で禁止されている。都市を焼き尽くし、戦争を継続する能力や意思をそぐ狙いがあったとされる。

 現存する大阪大空襲の写真は500点余。しかし、遺体が写ったものは一枚もない。大阪電気通信大の小田康徳名誉教授(日本近代史)は「カメラマンが撮影したのに処分したのか、写さなかったのかわからない。いずれにしても被災者が見た光景をありのままに描いた体験画によって初めてわかった空襲の非人道的な実態は数多い」と話す。

体験画、データベース化進める

 体験画が改めて注目されたのは、大阪大空襲の継承活動を続けてきた「大阪大空襲の体験を語る会」が、会員の高齢化で今月末での解散を決めたのがきっかけだ。自身も描いた代表の久保三也子さん(90)=大阪市福島区=は解散を見越して、2009年に原画のすべてをピースおおさかに寄贈していた。

 同館は「語る会」の要望を受けて、体験画のリストを作成。原画を館内の端末で見られるようにデータベース化を進めている。今月22日からは原画約120点を特別展示する予定だ。

大阪大空襲の体験画

1981年、空襲研究の第一人者だった関西大の小山仁示教授(2012年死去)が「大阪大空襲の体験を語る会」に勧めたのがきっかけ。約100人が約310点を描いた。一部は画集として出版(絶版)。

 「語る会」によると、体験画を描いた約100人のうち、生存が確認されているのは数人。うち2人が取材に応じた。

炎に包まれた妹 「誰にも言いたくなかった」

ここから続き

 炎に包まれる幼い妹を目の前…

この記事は有料記事です。残り1202文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

【お得なキャンペーン中】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら

空襲1945

空襲1945

あのとき、日本中が戦場だった。東京・大阪・福岡など各地の写真300枚や映像、データマップで惨禍を伝えます。[もっと見る]