福島が問う「覚悟」 43歳記者が歩いた初任地のいま

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斎藤徹
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 ちょうど20年前、福島県で記者生活のスタートを切った。2011年3月に東日本大震災が起きたときは、原発事故放射能被害が深刻な被災地で取材をした。いま、札幌市の北海道報道センターで記者をしている私(43)。全国各地を転々としてきたが、新聞記者という仕事の厳しさと醍醐味を教わった福島には、とりわけ愛着がある。9年ぶりに訪れた原発事故被災地には、「変わった福島」と「変わらない福島」があった。

避難解除の街に戻った「生活のにおい」

 2月初旬と下旬の2回、北海道から福島に降り立ち、レンタカーを借りて取材に回った。行き先は主に、福島市から東南方面の川俣(かわまた)町、飯舘(いいたて)村、浪江(なみえ)町。9年前も取材で回った、阿武隈(あぶくま)高地にかかる山あいの地域だ。

 これらの町村は、東京電力福島第一原発や同第二原発がある原発立地自治体ではない。だが、2011年3月12日の爆発事故で飛散した放射性物質による汚染が、福島県内でも高い地域だ。事故直後の風向きと降雨、それに地形の影響で、大量の放射性物質が山林や田畑に降ったからだ。

写真・図版

 国道114号を太平洋岸に向けて走っていくと、まず気づいたのが、あちこちにできている真新しい住宅だ。車窓から、庭で遊ぶ親子や、居間でくつろぐお年寄りが見えた。放射能被害で避難生活を余儀なくされたことに対する東電からの賠償金で建てた世帯が多いという。9年前、ほとんどの住民が避難して廃村したようだった地域も、今は車が行き交い、家の軒先には洗濯物が干され「生活のにおい」を感じ取ることができる。

「東電を許したわけではない」

 国道沿いには、地域の復興を目的に、国の補助金などを使った商業施設もできていた。国道をそれて北上した県道沿いにある「道の駅 までい館」もそうだ。細杉今朝代(けさよ)さん(64)は、ここに毎朝、ホウレンソウやチンゲンサイなど自分の畑で育てた野菜を卸している。2017年3月に地区の避難指示が解除された後、避難先の福島市から戻り、畑仕事がいきがいの一つになっているという。この3月末には、自宅敷地内にみそ加工場が完成する。原発事故まで一緒に暮らし、今は離れて暮らす孫たちに、こだわりの健康みそを食べさせてあげたいと思っている。

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 「元の家に住むようになった…

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