「荒ぶる」で恥じた昔の自分 失敗続きのラグビー人生 

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編集委員・中島隆
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 みなさんご存じのとおり、ラグビーは夏から翌年1月にかけて、社会人、高校、大学の順で日本一が決まります。

 早稲田大学のコーチ、後藤翔太さん(37)は幸せ者です。この1月に早稲田が大学日本一になったから、だけではありません。高校時代にプレーした桐蔭学園、そして社会人でプレーした神戸製鋼も……、そうです。昨年夏から今年1月にかけて、出身3チームが相次いで日本一になったのです。

 「トリプル日本一」について、後藤さんは言います。

 「僕はラグビー人生で情けない失敗をたくさんしてきました。それを、後輩たちが『先輩は間違っていなかった』と肯定してくれた気がします」

 後藤さんの現役時代は、輝かしいものでした。桐蔭学園時代はベスト8、早大4年のときに日本一。日本代表にもなります。神戸製鋼に入るとトップリーグの新人賞を取り、キャプテンもつとめました。

 けれど、試合に出られない悔しさ、焦りも経験し、28歳で現役を引退します。

 東京・上井草にあるクラウンドで、栄光と挫折をうかがいました。

「まったく通用しませんでした」

 ――なぜラグビーを始めたのですか?

 「僕は大分市に生まれました。アイスホッケーをしていた父は、ラグビーも好きでした。僕には、ラグビーかホッケーをさせたかった。僕の1歳の誕生日プレゼントは、ラグビーボールでした。それから家の中には、つねにラグビーボールがありました」

 「僕は体が小さく、走るのも遅かった。強くて大きい男にあこがれていました。小学2年のとき、テレビでアメリカンフットボールの中継をしていました。アメフトのボールが、家にあるラグビーボールに似ていました。ヘルメットをして防具をした男たちが、ぶつかりあっていました。僕は、これがラグビーだと思い、父に『ラグビーをしたい』と申し出ました。もちろん父は大歓迎。ラグビースクールに行きました。すぐ、勘違いに気づきました。でも、自分からラグビーをしたいと言ったので、引き返せません」

 ――続けたなんて、たいしたもんです。

 「僕のポジションはスクラムハーフ。ボールを取り合う密集のところに走り、出てくるボールを素早くパスする役割です。あだ名は『鈍足翔太』。相手をかわせたとしても、すぐ追いつかれてしまいます。まったく通用しませんでした」

 「僕は、子ども心に自分を分析しました。野球、サッカー、勉強で日本一にはなれません。でも、パスと走力を磨けばラグビーでは日本一なれるかも。そして、小学校を卒業する12歳で決意したんです」

12歳の決意とは

 ――どんな決意ですか?

 「10年後の22歳、大学4年のときに、僕を倒していったみんなに勝って日本一になるぞ、です」

 「中学に入ったとき、身長は140センチちょっと、体重は40キロもありませんでした。陸上部に入って短距離を走りまくり、家の近くにある公園で、夜中までボールを投げ続けました。そのころ強い大学といえば、早稲田、明治、慶応、筑波あたり。勉強しなくては行けないので勉強も頑張りました。中3で九州選抜に食い込みました」

 ――大分の強豪高校と言えば、大分舞鶴高校ですね。

 「12歳の決意を達成するために環境を変えよう、と考えました。母親が神奈川出身でした。志望校を考え始めた中学2年のとき花園に出た神奈川代表が、桐蔭学園でした」

 「桐蔭学園で、ひたすら練習しました。結果を出さないと、大分から何しに来たんだと言われるだけです。高校3年でキャプテンとして花園に出場。僕らはベスト8、大分舞鶴はベスト16。大分舞鶴の上に行けたことは、僕のプライドをくすぐりました」

 ――そして、早稲田大学に進みます。

 「日本一を決める大学選手権は、準々決勝までは年末に行われます。ベスト4に入らなければ年越えができません。当時の早稲田は年末でシーズンを終えていました。でも、当時の早稲田のスクラムハーフ、月田伸一さんが会いに来てくれました。断れません。早稲田に入学したのと同じタイミングで、サントリーから監督としてカリスマがやってきました」

カリスマとの出会い

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 ――私のようなラグビーの素…

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