「対テロ戦争」を始めたのはジョージ・ブッシュ氏ではなく実は、25日に死去したホスニ・ムバラク氏だったのかもしれない。1981年、エジプトの当時のサダト大統領が、イスラム過激派「ジハード」の凶弾に倒れた際、副大統領だった自らも負傷した。ジハードはエジプト最大のイスラム組織ムスリム同胞団から分派した武闘派。大統領として同胞団と過激派の取り締まりを徹底的に進めた。
弾圧は反撃を招いた。97年に別の過激派「イスラム集団」が南部ルクソールで外国人観光客を襲撃、日本人10人を含む62人が死亡した。主要な歳入源の観光を狙い撃ちにした無差別テロは、エジプト版の9・11だった。
過激派対策に活用したのが大統領就任直後から維持し続けた非常事態令だった。令状なき身柄拘束や、治安関係の裁判を通常の裁判手続きと切り離す手法は、グアンタナモ基地をはじめとする米国の対テロ戦略の先例となった。
国内のテロを封じ込めるため、服役後の過激派を国外に追放した。その結果、彼らはアフガニスタンに向かい、テロは世界に拡散した。オサマ・ビンラディンの殺害後、国際テロ組織アルカイダを率いるザワヒリ容疑者はジハード出身のエジプト人である。2001年に起きた米同時多発テロ(9・11)事件は、内憂を外患に転じたムバラク流「対テロ戦争」の延長線上にある。
ムバラク氏は力による封じ込めが何をもたらすかを知っていたのだろう。米国による2003年のイラク戦争開戦直後、こう語っている。「今は1人だが、100人のビンラディンが生まれる」。だが、自分も国内では力による封じ込めを続けた。「親米路線」と「過激派対策」ほど権力維持に便利なものはなかったからだ。体制維持の「暴力装置」となった治安部隊は、過激派の壊滅後も市民相手に弾圧を続けた。
30年間、国内では同胞団と…
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