敗戦、信じなかった人々 94歳の警鐘「今と似ている」

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ブラジル・マリリア=岡田玄

 第2次世界大戦の直後、南米ブラジルの日本人移民社会で、日本の敗戦を認める「負け組(認識派)」と、信じない「勝ち組(戦勝派、信念派)」の間で「勝ち負け抗争」と呼ばれる事件が起きた。1946~47年1月だけでも死者は23人にのぼり、30人以上が負傷したとされる。当時、「負け組」の指導者を暗殺した日高徳一さん(94)を訪ねると、「今はあのころと似ている」と言う。どういうことなのか、話を聞いた。

「日本が勝ったとラジオで」

 サンパウロから北西に約450キロ。マリリアの街の中心近くの自転車店を訪ねると、小柄なお年寄りがカウンターにぽつんと座っていた。暗殺事件を起こした当事者の、最後の生き残りの日高さんだ。若いときでも身長は152センチだったという小さな体と、柔和な顔立ち。目の前の優しそうな老人と事件が結びつかなかった。

 日高さんは26年、宮崎県の延岡で生まれた。6、7歳のころ、一家でブラジルに移民。父は、徳一少年に「日本精神」を教えた。皇室や日の丸を敬うこと、教育勅語を暗唱すること……。「当時はそれが当たり前だった」と振り返る。天皇皇后の肖像写真の「ご真影」は自宅にはなかった。「こんなあばら屋に掲げるのは不敬だ」という理由だった。

 多くの日本人移民と同じように、父はお金をため、いつかは日本に帰るつもりでいた。だが、日本は日中戦争に突入。41年に米国に宣戦布告すると、ブラジル政府は42年1月、日本などの枢軸国と国交を断絶。在ブラジルの日本の大使館や領事館は閉鎖され、日高さんも不安に駆られたという。

 「天皇陛下に見捨てられたと思った。80年経つけど、いまでもたまらんね。一度も忘れたことがない」

 涙声で語った。このとき、父親は「陛下は私たちがどこへおっても忘れはしない」と諭したという。

 日高さんたちは所持を禁じられていたラジオを隠し持ち、日本からの短波放送を受信した。だがザーザーと雑音ばかりで、言葉はほとんど聞こえなかった。

 ところが、よく聞こえると評…

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