(小説 火の鳥 大地編)38 桜庭一樹 ようこそ自由と悪徳の都へ!

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 すると、妻の顔が、くしゃくしゃに歪(ゆが)んだ。「よ、要ちゃんは、お腹(なか)すかせて泣きながら寝たこと、な、ないのよ!」と泣く。雪崩まで号泣しながら「そうよ!」とうなずく。なんなんだ、一体……。妻は縁側に寝転び、拳と足で床を叩(たた)いて人間打楽器となり、

「どっちの味方すんのよぉ! あ、あたしの旦那さまなのに。ぜったい食べるなって、でっかく、か、書いといたんだからぁっ!」

 妻の浅黒い頰や腿(もも)を月光が濡(ぬ)れたようにてらてら舐(な)めている。「ごめんよお夕ちゃん。ぼくが悪かった」と謝ると、妻は起きあがり、溺れた人のようにぎゅっと抱きついてきた。背中に爪が刺さって痛い。嗚咽(おえつ)の震えが伝わってくる。

 そうか、この人には身寄りがないも同然だ。生きてる限り、この世に味方は、ぼく一人か。そう思うと、愛(いと)しさとわずらわしさが同時に込みあげた。あぁ、この女と別れることはもうできないだろう。

 その後も家庭内でのゴタゴタが続いた。ほどなく、ぼくら夫婦が三田村家を出て別の所帯を構えることになった。父からは製鉄業で潤う九州北部の支店を任せたいと提案されたが、思案の末、首を振った。どうせ東京を離れるなら、いっそもっと遠くに、という夢が膨らんだためだ。(大空にぃ、羽ばたきぃ、力ぁいっぱいぃ、飛び回るぅ……)という道頓堀鬼瓦の声がまた思いだされた。

 というわけで、一九〇一年早春。ぼくら夫婦は、横浜港を出て上海に向かう蒸気船に乗った。父夫婦も、それに幼なじみの田辺保も見送りにきてくれた。妻と雪崩は仲が悪いんだかなんだか、結局のところよくわからない。乗船直前、雪崩は妻に走り寄ると、何か小袋を押しつけ、白猫みたいに遠くまでビャッと逃げてった。

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 船が出る。保が両目から太い…

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