「ソ連の原爆の父」足跡をたどる旅 ある種の正論に思う

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松尾一郎
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 旧ソ連の核開発のネットワークをたどる今回の取材は、「ソ連の原爆の父」であり、核の平和利用にも取り組んだ核物理学者、イーゴリ・クルチャトフ(1903~60)の足跡をたどる旅でもあった。

 その名を冠するカザフスタンのクルチャトフ市は、かつて「セミパラチンスク21」と呼ばれた核実験拠点都市だった。

 10月末のある夕刻、市中心部に残る古ぼけた木造の一軒家、通称「ベリヤの家」のドアをたたいた。今は教会として使われている。ロシア正教の司祭ディミトリ・ネクテロフさん(33)は突然の訪問にもかかわらず、快く迎え入れ、中を見せてくれた。

 この家には、第2次世界大戦を通じて秘密警察トップで、原爆開発を支えたラブレンチ・ベリヤ(1899~1953)をはじめ、クルチャトフら原爆開発の要人らが出入りしたといわれている。ベリヤは多くの粛清を主導し、クリミア・タタール人の追放などを実行した人物として、悪名を歴史に刻む。

 クルチャトフの書き残した記録に、1946年1月25日夕に当時の最高指導者スターリンやベリヤらソ連指導部と持った会合に関するものがある。場所は明らかにされていないが、米国が広島と長崎に原爆を投下して約半年後だった。スターリンは原爆開発をせかしつつ、「最も幅広い、最高の支援が提供されるだろう」と確約した。第2次世界大戦で打ち負かしたドイツの人材や設備、工業力などをそのために動員する意図も示した。

 セミパラチンスク21などの秘密都市や、秘密核施設が次々に造られていく。ソ連のドイツ人捕虜は、原爆用のウランを採掘していたキルギスの秘密都市マイリ・スウや、ウラン精錬の拠点施設があったウクライナ中部カミャンスケの開発にも動員されたとされる。

 原爆開発の技術的な指導者だったクルチャトフは49年8月29日、ソ連最初の原爆「エル・デー・エス1」の実験に成功したことで、名声と政治的な立場を確固たるものにした。

 だが、ある時期から、核兵器から距離を置き、核の平和利用に力を入れたとされている。

 世界初の民用原発や世界初の原子力船レーニン、モスクワの現クルチャトフ研究所の粒子の円形加速器シンクロトロン――。これらがクルチャトフの影響下で進められた、主な非軍事目的の原子力プロジェクトとして知られている。

 クルチャトフは、その死後に完成したウクライナのチェルノブイリ原発にも間接的に影響を及ぼした。証言するのはモスクワ在住の理論核物理学者のビタリ・シェレストさん(79)だ。熱心な原発推進論者で原発業界との関わりも深い。

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 父はソ連・ウクライナ共和国…

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