「はっしゃー」最初に告げた駅長 東北新幹線と歩む人生

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武沢昌英
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 朝の新青森駅ホームは、風が冷たかった。

 2010年12月4日、午前6時31分。駅長の赤坂光広さんはホームに立ち、右手をまっすぐ高く挙げた。

 「はっしゃー」の声で、上りの一番列車「はやて12号」が動き出す。八戸―新青森駅間が開業、東北新幹線の全線がつながった瞬間だった。

 赤坂さんは当時、56歳。ホームの寒さと「右手を挙げるのがちょっと早くて、そのままの姿勢が長くなった」ことが今も記憶に残っている。

 八戸市生まれ。八戸工業高等専門学校の機械工学科で学び、1974年に国鉄に入った。東北新幹線の整備計画が決定されて間もない頃だった。JRの関連会社の役員などを務め、2019年6月に退職するまでの赤坂さんの日々は、鉄道をめぐる環境の変化や東北新幹線の開通と深く関わり続けた足跡でもある。

 ディーゼル車や機関車の検査、修繕から始め、機関士として貨物車や客車の運転もした。運行を管理する列車指令(現在の輸送指令)などを経て、盛岡鉄道管理局の総務部人事課に異動した。

 4年後の1985年秋に国鉄の分割民営化が閣議決定され、要員計画作りや労働組合との交渉にあたった。余剰人員、希望退職、広域異動、転職支援……。ただただ忙しかった。

 国鉄マンたちが記した意思確認書を本社に提出するため、同僚2人とともに寝台列車で上京したこともある。まだパソコンがなく、書類が何より大切だった時代。「1枚でも紛失したら大変。寝台でも寝ることなんてできなかった」

 92年の異動で岩手県内の二戸駅長に。初めての駅長勤務だったが、2年ほどで盛岡支社の企画部門に移る。新幹線の開業にともなって経営分離されることになる、盛岡以北の並行在来線の事業が待っていた。

 新幹線と在来線の両方を持つのは難しいと説明しても、地元にはどうしても「どうして私たちのところは第三セクターなんだ」という思いがくすぶる。地域の意向と会社の事情との間で、調整に追われた。

 2002年12月1日、東北新幹線の盛岡―八戸間が開業。故郷の八戸まで新幹線が延びた日だったが、赤坂さんは開業の瞬間は見届けていない。同じ日、JRから引き継いだ岩手県の第三セクター「IGRいわて銀河鉄道」の式典を見守っていた。

 その後、岩手県の一関駅長や青森駅長を経て、八戸―新青森駅間の新幹線開業まであと1カ月となった2010年11月初め。新青森駅長への異動を内示された。

 地元の八戸への延伸のときは、新幹線ではなく並行在来線の仕事。そうかと思えば、東北新幹線が全線開通する日を駅長として迎えることになった。「不思議なめぐりあわせだな、って」。国鉄に入ってから、36年が過ぎていた。

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 国鉄の分割民営化、東北新幹…

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