「実行犯」はもう1人いた 死の淵を見たコールガール

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乗京真知 古谷祐伸
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金正男暗殺を追う 第4部

 金正男(キム・ジョンナム)氏に毒を塗って殺害したとして、逮捕されたインドネシア人のシティ・アイシャさん(27)は、マレーシアでマッサージ店員として働く出稼ぎ労働者だった。実家に仕送りをしながら働いていた彼女が、ある夜現れた北朝鮮工作員に心引かれ、甘言に乗せられて行動をエスカレートさせていったてんまつを、独自に入手した拘置所の面談記録や関係者の証言を手がかりに検証した。(朝日新聞国際報道部記者・乗京真知、古谷祐伸)

貧しくもけいけんな一家

 シティは1992年2月、インドネシアの首都ジャカルタから西に約80キロのバンテン州セランで生まれた。ジャカルタから高速道路は延びているが、少し外れると熱帯の森が広がっている。その森を切り開いた農道には、ヤシの実を売る露店が点々と並んでいた。住民の大半はイスラム教徒で、家畜小屋では犠牲祭で供される牛や羊が飼われていた。

 農道からさらに細い脇道に入り、放し飼いの鶏をよけながら集落の奥に進むと、小さなモスクの脇にシティの生家が見えてきた。玄関先に青いタイルが敷かれた、白壁の質素な家だった。

 記者が訪ねたとき、黒い民族帽をかぶったシティの父アスリアさん(54)は、庭のサボテンを眺めて立っていた。熱心なイスラム教徒で、お辞儀をしながら右手を差し出した。玄関にござを広げて座り、幼いころのシティの話をしてくれた。

 「シティは親思いの優しい子でした。幼いころから、よく家事を手伝ってくれました」。アスリアさんによると、シティは3人兄妹の末っ子として生まれた。家で本を読むのが好きだったが、明るい性格で友達が多く、放課後は家に子どもが集まった。夕方になると、母親と一緒に晩ご飯を作るのが日課だった。

 勉強は苦手ではなかったが、小学校を出た後は進学をあきらめたという。スパイスを売り歩くアスリアさんの稼ぎは不安定で、家族5人の生活を支えるのには十分でなかった。アスリアさんは「家計が苦しくて、学費を出してやれませんでした」と声を落とした。

 15歳になるころにはセランを離れ、独り立ちした。ジャカルタに移り、家政婦として働き始めた。年配の男性宅で身の回りの世話をし、稼ぎを実家に送った。翌年には男性の息子と結婚した。婚姻年齢の16歳を超えたばかりだったが、ほどなく息子を身ごもった。共働きで子育てに励んだが、結婚生活は4年で終わった。親権は夫に渡り、息子と離ればなれになった。

離婚後に向かった島

 1人になったシティは、インドネシア西部のシンガポールに近いバタム島に移った。赤道直下のバタムは、うっそうとした木々が赤土を覆う、常夏の離島だ。道ばたでは上半身裸の農民が、ドリアンの実をつるして売っていた。

 のどかな島も、北端の港周辺だけは開発が進んでいた。インドネシア最大級のフェリー乗り場があり、数分おきにフェリーが出入りしていた。1~2時間で対岸のシンガポールやマレーシアに着くため、観光客だけでなく出稼ぎ労働者にも人気だという。バタム―ジョホールバル(マレーシア南端)に限っても、日に30回近く往復運航していた。

 町の中心部にはケンタッキーフライドチキンやサーティワンアイスクリームもあり、大通りに面したショッピングモール「バタム・シティ・スクエア」は家族連れでにぎわっていた。

 シティは2012年ごろから、このショッピングモール3階の洋服店「THE SLIP」で販売員として働いていた。シャツやワンピースのほか、薄手のパジャマやランジェリーも取りそろえた店だった。昼休みによく一緒にお茶をしたという販売員のミリーさん(31)は「シャンティはメイクがとても上手で、身なりに人一倍気を使っていました」と語る。初めてのお客さんにも、さりげなく声を掛け、自然と打ち解ける人なつっこさが評判だった。周囲には「いつか独立して、自分の洋服店を持ちたい」と夢を打ち明けていた。

明かさなかった実名

 社交的なシティにも、秘密にしたいことがあったようだ。職場では実名を伏せ、「シャンティ」という偽名を使っていた。近しい友達にも、経歴や家族のことは明かさなかった。2015年には「実家に帰省する」と店を出たきり、戻らなかった。同じ店で働くユリ(24)は「シャンティはとても親切で成績のいい販売員でしたので、もっと待遇のいい仕事を探したかったのでしょう」と話す。販売員の公休は月2日だけで、月給は150万ルピア(約1万1千円)と安かった。

 シティが当時、シャンティの名で開設したフェイスブックからは、カラオケ店で仲間に誕生日を祝ってもらったり、たまに民族衣装で着飾って自撮りしたりする、インドネシアの若者らしい暮らしぶりがうかがえる。ただ、ときおり何の脈絡もなく憂いを帯びたメッセージを投稿して、友達を心配させることがあった。

 「表で我慢していても、裏で心は泣いている」(2012年9月)

 「過去を消し、現在を変え、未来をつくる」(2012年10月)

 「…私を裏切らないで…」(2013年10月)

 「1人は落ち着く」(2014年4月)

 「孤独を感じるとき、自分以外に信用できる者などいないと、気づかされる」(2014年5月)

 2015年初めにはバタムを離れた。片道28万ルピア(約2100円)のフェリーに乗り、シンガポール海峡を渡って、対岸のマレーシアへ向かった。ビザなしでも滞在が許されるマレーシアは、給与水準も高く、出稼ぎ先として有望だった。滞在期限は30日間だが、いったんバタムに戻って再入国すれば、何度でも30日間の滞在が許された。そんな入国のしやすさも、マレーシアを選んだ理由の一つだった。

 2016年夏には、バタムに残っていた親友ジアさんが、病気を患って急死した。いつも顔を寄せ合って写真を撮り、悩みを打ち明けた仲だった。「さよなら、ジア」「どうか天国に」。フェイスブック上には、追悼のメッセージや写真の投稿が相次いだ。

 やがてシティは友達との連絡を絶ち、シャンティの名も封印した。代わってマレーシアではケリーと名乗り、夜の世界に足を踏み入れた。それが事件に巻き込まれるきっかけになることなど、この時のシティは知るよしもなかった。

マッサージ店で住み込みで働く

 「私がマレーシアに渡ったのは、2015年初めごろでした。フェリーを使って、インドネシアのバタム島からマレーシアに移動し、クアラルンプールで働き始めました」。シティの供述内容をつづったマレーシア警察の調書は、そんな述懐から始まる。

 「すでにクアラルンプールに…

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