「将棋の天童」支えた子どもたち 慰問品は名人戦の駒に

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上月英興
【動画】80年前の映像を見ながら、天童での駒作りの歩みを振り返る駒職人の国井孝さん=上月英興撮影
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 駒切りナタで木材を削る職人、脇目も振らず漆で字を書く少年たち――。将棋駒の名産地、山形県天童市で1939(昭和14)年ごろに撮影された駒作りの映像が、朝日新聞社が制作した子ども向けニュース「アサヒコドモグラフ」から見つかった。天童の駒が将棋界の最高峰・名人戦でも使われるほど高級になろうとは、夢にも思われなかった時代。戦時中から駒作りに携わる名工は、若かりし先輩たちの手仕事に「たいしたもんだ」と感嘆した。

現代の名工「初めて見た。懐かしい」

 駒職人歴約70年の国井孝さん(84)=天童市=は口を開いたまま画面を見つめた。「映像で見たのは初めてだ。懐かしいな」

 1分弱の映像は「サテ 何が出来るのでせう? 山形県」というテロップから始まる。

 鉢巻きを巻いた職人が丸太をのこぎりで輪切りに。別の職人がナタを棒でたたいて木材を割る。さらに金太郎あめのように駒の形に切り分ける。今はすべて機械でできる駒木地作りの工程はどれも手作業だ。

小遣い稼ぎの少年たち、その中に…

 続くのは、作業台を並べて駒に筆で字を書く丸刈りの少年たち。国井さんは「この辺りの子は、小学4年生ぐらいになるとみんな駒書きを習いに行っていた。小遣い取りです」。

 「めんこいよ、この子。あぁ、梅津作郎さんだ」と話した国井さんが、押し入れから小さな木箱を取り出した。中には駒1組。晩年まで書き職人として活躍した故梅津さんから、数十年前に購入したという。

 漆がぷっくりと盛り上がり、「止め」「はね」などがはっきりした堂々たる字。「玉将」の駒尻には、梅津さんの雅号「梅一」が記されている。

 国井さんは振り返る。「天童の駒は発展したんだ。今は良い物は50万円にもなるけど、昔はあり得なかった」

元々は天童織田藩士の内職

 将棋駒は、職人の仕事が入るほど高級品になる。

 駒木地にゴム印で字を押す「スタンプ駒」、漆で字を直接書く「書駒(かきごま)」、字を彫って漆を塗った「彫駒(ほりごま)」、字を彫った溝を漆で埋めた「彫埋駒(ほりうめごま)」、さらに漆を重ねて字を浮き立たせる「盛上(もりあ)げ駒」の順に高価になっていく。

 天童の駒作りは江戸時代、財政難の天童織田藩が困窮した藩士の内職として奨励したことが発祥とされる。明治時代末期までは書駒だけの生産体制で、大阪の中級品、東京の高級品には及ばなかったといわれる。だが31(昭和6)年の満州事変後、慰問品として安価な書駒やスタンプ駒の需要が増大。小学生も字を書く徒弟制度が生産を支えた。

「戦争中は彫る刃物もなくなった」

 太平洋戦争が始まると、小学生だった国井さんもスタンプ駒作りを手伝った。「午後3時におやつがもらえるので学校が終わるとすぐ行った。サツマイモかジャガイモ。塩をかけて食べるのがごちそうだった」

 映像に彫駒を製作する場面があることから、国井さんは戦争が激しくなる前に撮影されたとみる。「戦争中は、彫る刃物もなくなったから」

全国シェア95%、将棋名人戦でも

 天童の駒は戦後、徐々に職人技による高級品と化していった。高度経済成長期ごろから彫駒の生産が増え、由緒ある美しい書体の使用が広まった。昭和40年代には彫埋駒、盛上げ駒が商品化。96年には「天童将棋駒」が国の伝統的工芸品に指定された。

 今や天童の将棋駒の全国シェアは約95%。天童で開かれる名人戦で使う駒は、県内の職人が作った盛上げ駒しか候補にもならない。

現代の名工となった国井さん。記事後半では80年前の映像全編もご覧頂けます

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■「深く太く、手彫り一筋」…

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